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紺碧の将

私がビーズワークにはまるわけ

2019.07.01

ここ何十年もビーズでお花を作り続けてきた。
花屋さんで目にとまった生きのいい花を求めては花瓶に挿して先ずはじっと眺める。
それは花を愛でるというよりは、凝縮するという感じだったように思う。
この見事な薔薇をどうしたらビーズフラワーとして再現できるだろうか。その可能性を求めて、ワイヤーに通したビーズを曲げたり丸めたり、悪戦苦闘の末、目はかすみ肩はコリコリ状態というのが若い頃の私であった。

 

一種類でも多くレパートリーを増やしたい、次の講習会には間に合わせたい、と自分をビーズワークに追いこんでいた。
しかしここ十年ばかり私がビーズに向かい合う気持ちは大変おだやかである。不思議なことに今は全く肩が凝らなくなった。
確かに眼は重度の老眼となり果て、眼鏡のお世話なくしては一歩も手が出せない。でも身体を柔らかくし、ビーズに身を任せるという不思議な慣れ合いが生じてきて、ちっともビーズワークが苦にならないのである。

 

花を見つめるという習性も遠のいた。反対に素敵な色のビーズに出合うと胸がわくわくしてくる。花のモチーフが浮かび、インスピレーションが降りてくる。
ウインドウの花器に目がくらみ、どのような造形の花が似合うだろうかと思い悩む。
これらの体験は私にとっては夢の世界への入口である。生きている花はそれだけで完成していて、神様の創られたものはどれも過不足がない。それを真似たいというのだから苦しくてつらいわけである。

 

花であれ器であれ、あるいは身につけるものに、これだ!と惹きよせられるその基となっている感情は一体何なのであろうか。
これらを選択するのは正に私なのであって他のだれでもない。そして思う。私が相対するものは私に訴えかけてくる。
“わたしを見つめて!”とビーズは琥珀色に輝き、ガラスの器は悩ましいボディーを堂々と披露している。

 

「これで決まりね」私は覚悟をきめて苦しくも甘美な夢の世界へ迷い込むことになる。
 この関係性を私は「色気のあるもちつもたれつ」と表現したい。色気とは訴えかけてくるもの、その迫力である。

 

生きていることは色気を求めることかもしれない。
年齢とともに浮世の煩わしいことがそぎ落とされ、より深く色気のある世界にのめり込んでいく……。恐ろしいようだがこれは人間の真実かもしれない。

 

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