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紺碧の将

つくし誰の子

2022.04.15

 「やっと春めいてきたわね」。

 久しぶりに会えた友人との何気ない会話にも心が弾む。

 「でも早めの草取りをしないと大変よ。家の前の空き地なんかもうスギナがいっぱい。ロシアの兵士が押し寄せてくるように、我が家まで迫ってくる勢いよ」。

 友人は凄みの効いたジョークをサラッと言ってのける。このところコロナや、ウクライナ情勢で私たちの気持ちはとても沈んでしまっていて、こうして普通に会話をしていることすら後ろめたい気がする。

 でも私の単純細胞はいつも自分優先だ。「えっ、スギナが生えてきたということは、もうつくしは終わり?」。私にとってこれは重大な気づきである。つくしの生命はとても短く、私の長年の感覚では最盛期はわずか一週間、いつの間にかスギナが周りを囲み始めたらつくしは早々と姿を消してしまう。早春、筆のような形をした可愛いつくしの頭が土のなかから顔を出す。そこには胞子がいっぱいついていて、少し伸びた頃は風に乗って盛んに胞子を飛ばすのである。ふっと吹いてみると周りに煙ったように胞子が漂う。

 

 この短い時期にだけ、私の「つくし摘み」が30年以上に渡って細々ながら続いている。3月から4月という暦は、年度末とか、卒業入学シーズンに気持ちを取られることもあって、年に一度のこのささやかな私の習慣はつい忘れられがちになってしまう。

 そういう訳で今年も忘れてしまうところであった。近所の土手へはせ参じたところ、案の定スギナに埋もれてつくしはポチポチと散見される。それでもキリキリセーフというところであろうか。ようやく摘み取って測ってみると500グラムにもなった。これを洗い、一本づつ丁寧に袴を取り去り、湯がいて水にさらし灰汁抜きをする。ここまでが一仕事であるが、何故か私の性分に合っているとみえてあまり苦にならない。こういうことは、ビーズワークの延々と続く作業にも似ていて、「忍耐が練達を、練達は喜びを生む」ことを肌で感じる時がある。

 さらした一塊りはぎゅっと絞ると大きなおにぎりくらいの大きさになる。私は酒、味りん、醤油でじっくりと炊き込む。汁をほとんど飛ばしてちょっとしょっぱめの「つくしの佃煮」の完成だ。フキノトウの和え物はよく知られているが、つくし独特の香りと苦味もまた絶品であることよ!と自我自賛している私である。

 

 我が家から徒歩2分の所に東北線の路線が通っていて、線路伝いおよそ500mの間に沢山の野草と共につくしも姿を現す。子供たちが小学生の頃はよく手伝ってくれたものだ。美味しいおやつになるわけでもなかったのに、これはひとつのリクレーションだったかもしれない。

 「おばさん何摘んでいるの?」

 「つくしよ」

 「ふーん、僕この辺でいつもおしっこしているんだよ」

 「あーら、きっと栄養満点のつくしがにょきにょき出てくるわよ」……なんて会話も懐かしく思い出される。

 今ではこんな場所で子供たちの姿を見かけることも少なく、栄養も普通に与えられないまま、つくしの存在は間違いなく珍しいものとなってきた。それなのにスギナはどんどんはびこってきているという。冬の一時期以外スギナはどの季節も場所もいとわず生え放題の様子である。漢字で書くと「杉菜」。つくしは「土筆」。形状から納得するばかりである。

 

 “つくし誰の子、スギナの子~♪”と昔から童謡に歌われてきたが、本当にどんな関係なんだろう。つくし摘みに夢中でそんなこと考える余裕はなかったが、何か関係があるぞ、と思い続けてきたことは確かだ。親子なのかな? それとも兄弟姉妹なのかしら。初めて真剣に興味を持った。

 つくしとスギナは地下で一本の茎に繋がっていて、それぞれに役割があるということだ。つくしはスギナの「胞子茎」で繁殖のために胞子を飛ばす。スギナは「栄養茎」で光合成で栄養分を調達する。あぁ、だから時期が少しずれるのね。しかし、親子でも兄弟でもないなー。

 そうだ、私にひらめくものがあった。つくしとスギナは同じ茎から生まれ、土と光と風に育まれ、硬い絆でその歴史を繋いできた、正に「同士」と呼ぶにふさわしい関係にあるではないか、と。

 そんな眼差しで見渡せば、タンポポが沢山の花とつぼみを膨らませ、すごい数ののこぎり型の葉が放射線状に方向を目指し、花を守るように辺りを席巻している。見上げれば、ハナミズキの花弁が優しくそよぎ、次の季節の到来を告げている。

 

ハナミズキ

写真/大橋健志

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