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紺碧の将

言葉はいらない

2022.01.17

 一日の業を終えて、キッチン周りもすっきりした頃、私に突然睡魔が襲ってくる。食前と食後にも進んでしまうお酒のせいであろう。ベッドに入ってしまうにはまだ早く、8時を過ぎたばかりである。急ぎの仕事が残っているとちょっと辛いのだが、何にも無いと思われるそんな時はこの上なく幸せなほろ酔い時間である。

 テレビが時事放談のようなものをやっている。それを観ながら夫が何か話しかけてくる。ちょっと私は応えたくない気分である。「テレビも貴方も静かにしていてよ」。サイレント、サイレント……、私が欲しいのはそんな気分の午後8時である。

 すでに6時ころから、夫はビール、私はジンのロックでカンパイしながら、時にはどうでもいいディベイトを展開させ、締めのお茶づけが出るころは何とか収まっている。男と女の思考というか感じていることは何処か違う、すれ違うなーと思いながら毎日が終わるのである。

 近頃ふっとこんなことを考えてみた。人生百年時代と急に言われ始めて、「あら、まだ20年もあるじゃない」と。これは感じ方の視点によって違うと思うのだが、やり残したこと今夢中になっていることがあれば、20年は誠に短いと感じるであろう。何故なら、健康な20年を送れるとは限らない。しかも現在、今日が一番若いのだから。

 

 私流に単純計算ではあるが、一日24時間を3分割して、8時間は睡眠、洗面、入浴などの日常の基本作業、8時間は仕事、これは主に家族と自分をひっくるめたパブリックな時間と考える。そして残りの8時間は己のためプライベートな時間である。そこには自分の意に反した雑音は入れたくはないと思う。家族で生活していると、自分の自由なテリトリーは侵されていくし、子育て中であれば100パーセント無いものと考えよう。この期間は寛容、忍耐、慈しみの深さなどを経験し、試される大切な時でもある。

 しかし、人生百年となるともう少し自分の人生をいたわりつつも、厳しい目で見つめたいと思う。

 「年を取ったら別居」。言い方は冷たいようだが、これはなかなか清々しい提案である。夜の8時を過ぎたら、自分だけの思考回路に埋没したいという願いは私の我儘であろうか。「家庭内別居」という言葉が流行った時代もあったが、マイナスと捉えないで「仲良し別居」という考え方はどうだろう。2件の家を持たなくても、2部屋の個室と共通の居間があればいい。

 「とっくに我が家はそうですよ」。と言われそうですが、要するに意識の問題で、「なるべくお互いの邪魔をしない」という気持ちがあればいい。翌日が休日であれば、「いかが?」と声をかけて遅いティタイムも悪くはない。

 

 何事も意に染まらないと「おお面倒くさい!」の一言で済ませたい近頃の私。無口であること、しゃべらないことが一番楽である。これはビーズワークの弊害か、はたまた老化が一段と進んだ証しなのか、おそらくその両方であろう。

 色を変えて、組み合わせを工夫して、やっと出来上がった”ガーベラ”の一輪はあでやかにそこに在る。私はしみじみと見つめる。ライトを調整し、位置を変えて眺めるとガーベラは「ここにいるよ」と応えてくれる。言葉はいらない。私は飽きずに眺めている。「お仲間はどんな色がいいかしら」そんな風に尋ねてみる。「私が紫色だから、黄色もピンクもいいわね。深い緑、大人の赤も作ってみて!」と向こうは勝手にしゃべってくれる。言葉よりも饒舌に私の眼は呼応する。誰かがストップをかけてくれないことには昼も夜も止まらない、止められない。

 いいえ、大丈夫。仕事を終えた夫がたくさんの話題を引っ提げてご帰還だ。私の別のスイッチが有無を言わせず「オン」になる。

 

ガーベラのコサージュ

写真/大橋健志

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