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紺碧の将

「待つ」ことは先立つ恵み

2021.12.17

 クリスマスを待ち望む待降節(アドヴェント)に入り、教会の礼拝堂に飾られたクランツにも四本目のロウソクがまもなく灯る。

 今年の教会生活も自粛を余儀なくされ、会堂や玄関を飾るリースとクランツ作りが唯一の奉仕活動となった。摘み取られたばかりの桧葉は爽やかな芳香を放ち、私たちの作業も御子の誕生を祝い待ち望む雰囲気に満たされてくる。待降節第一聖日に一本目のロウソクが灯され、牧師は冒頭次のようなメッセージを私たちに伝えた。

 「本日から待降節に入りました。ところで、待つということはどういうことでしょうか。待つということをよく考えてみますと、そこに聖書の御言葉が伝える福音の核心部が見えてくるように思うのです。それは、先立つ恵みということです。私たちが人を待つとき、もしくは特定の日を待つとき、先立つものがあるからです。それは約束であり、特定の日です。先立つものがなければ、待つことはないのです。クリスマスを待つことを通して示されることは、神さまが、私たちの願いや思いを遥かに超えて、御子キリストの誕生を備えてくださったという先立つ恵みなのです……

 この後、説教は「マタイによる福音書」の中から説き証しが続くのだが、私はこの時「待つ」ということの意味を改めて深く心に刻んだ。日常、何気なく使っている言葉であるけれど、私たちの暮しや人生は、正しく待つということの連続の行為なのではないかとの思いに至った。

 人間だけではない。鳥も夜明けを待って巣立ち、夕刻には巣に戻っていく。私が毎週楽しみに待っているのは木曜日の朝である。何故かって、ただ今の我が家の家庭事情で朝寝坊ができる唯一の<🌸木>なのである。さすがに八時も過ぎた頃は、外の鳥たちの交わす声に目覚める。私の大好きな小鳥の目覚まし時計。

 

 思い返してみれば、私の人生の中で、待つという行為の先にある最大の恵みは三人の息子の誕生であろう。それぞれに山ほどの思い出があるが、さすが三番目誕生となると、「はて、どうしたものか」とさすがにタフな私も思案した。まだ長男が三歳になったばかり、来年はおんぶして、乳母車に載せて、手を引いて幼稚園へ···という私の姿が想像できる。それ以上にすごいと思うのは、現実を正確に見つめている我が義母、つまり夫のお母さんである。「すわ、康子さんの一大事」というわけで義母は私の母と妹に次のような提案をした。

 「出産予定日から算出して、それぞれが一週間ごとに役割に就く。前半入院前は陽子さん(私の妹)、中盤入院中は私、退院後はお母さんでお願いします」という誠に明快な内容であった。それぞれが遠距離で仕事を持っている身、それをやりくりしての決断と行動であった。私がちょっとは貢献できたかな、と思えるのは予定日にほぼ狂いが無かったことで三人のリレーはスムーズにバトンタッチされた。

 「無事に健康な赤ちゃんが生まれますように」とのみんなの願いと祈りが叶えられ、足柄山の金太郎さんのような男の子であった。その時を待つそれぞれの思いと行為は何と尊いものであろうかと、私は今も感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。

 神様は御子キリストをこの世に与え、罪を背負って生きざるをえない私たちを繰り返し慰め、生きることへの再出発を促してくださる。クリスマスを待つことを通して、先立つ恵みに応答する歩みへと導かれたい。

 

クリスマスツリーとサタクロース

写真/大橋健志

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