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紺碧の将

関ヶ原の戦いに見る、人間としての器

2022.08.01

 20数年ぶりに関ヶ原を訪れた。東西両軍合わせて約15万という、天下分け目の合戦が行われた古戦場である。

 歴史ものが好きになってから、古戦場や城をめぐるのが好きになった。実際に当時の様子を見たら、さぞや残虐な光景が繰り広げられていたのだろうが、戦うことは生き物である証。血沸き肉踊るのは、本能を刺激されるからだろうか。

 関ヶ原を訪れてあらためて思ったのは、三成目線の整備がされているということ。三成が本陣を敷いた笹尾山に身をおくと、関ヶ原全体の地形が手にとるようにわかる。家康が本陣を敷いた桃配山や裏切り武将・小早川秀秋が陣取った松尾山など、すべてが一望できるのだ。

 当時の布陣図を見ると、あらためて徳川家康の稀代の政治巧者ぶりが浮きぼりになる。東西両陣営で直接相対したのは、ほとんどが豊臣家恩顧の武将たち。西軍は言うに及ばず、東軍には福島正則、池田輝政、黒田長政、加藤嘉明、藤堂高虎、浅野幸長、山内一豊らが加わっていた。池田輝政は家康の娘と結婚していたため、東軍につくのはやむをえないが、他は家康に丸め込まれたようなものだろう。三成が嫌いだから、という理由だけではないだろう。おまけに西軍の総大将。毛利輝元は大阪城に釘付けにされ、前田利長は母を人質にとられ手出しができない状態にされていた。また、家康本陣の背後に陣取った西軍の安国寺恵瓊や長束正家は、調略された吉川広家によって身動きがとれない状態にされていた。お見事と言う以外ない。

 家康とすれば、最前線で戦っていたどちらが勝とうが、意に介さなかったのではないか。豊臣家恩顧の大名同士で殺し合い、消耗すればいいと思っていたはずだ。徳川本隊は、遅れて参じてくる秀忠軍と合わせれば、途方もない大軍を維持していた。しかも、ほぼ無傷の状態で戦況を見守ることができたのだ。戦が始まる前から、すでに勝負の決着はついていたようなものだ。

 もちろん、そのような状況にしたのは、家康の戦略的思考。反対に、石田三成は狭量で融通がきかず、「義」だけを前面に出せば皆がなびくと思っていたふしがある。観念的で合理的、頭のよい人間が陥りやすい穴である。現代の左翼の理想主義にもかぶる。そして、いたるところで無用の敵をつくり、敗因を自らつくることになった。

 関ヶ原後、徳川氏の所領は約242万石から400万石に増加した。当時の石高は、全国で約1800万石。関ヶ原の役による取り潰しと厳封は合わせて632万石。全国の3分の1以上が家康によって再配分されることになった。これでは権力が集中するはずだ。

 家康と三成のちがいは、人間の本性を知っているか否か。そういう意味では、じつに多くの示唆に富んだ天下分け目の合戦だったといえる。

 

三成が本陣を敷いた笹尾山

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

笹尾山の手前には島左近の本陣があった。なんといっても島左近はカッコいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三成本陣への入り口

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三成本陣跡地

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三成本陣跡地より松尾山方面を望む

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三成本陣跡地より桃配山方面を望む

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(220801 第1138回)

 

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