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紺碧の将

どこかで出合った懐かしい形

2022.08.10

 今年の夏も暑さとコロナで我慢を強いられそうな気配である。でも私にはビーズさえあればたとえ火の中水の中……とは少々オーバーだけれど、ビーズワークは確実に私の避難場所となっている。しかし、ただ座していればアイデアや物語は生まれてくるものでもない。友人とおしゃべりをして、日曜日には教会へ行って、季節の変わり目には小さな旅をして……、と何らかのアクションがなければ心の片隅にチカッと灯がともらないことも、私は経験上よく心得ている。

 私は物語を紡ぐのが好きだ。完璧なストーリーを作るのではなくて、あるワンシーンを想像するだけである。「あの人に似合いそうなスワロフスキーとビーズのコンビネーションネックレスを」とか「すみれ色した菫のブローチは可憐なあの方に」「洗面台のそばには朝の光を受けている真っ白なデージーを」などと空想の夢を飛ばしながら作っている。正に『夢見るビーズ』の世界、完璧に私はビーズに喜ばれるための僕の気持ちになり切っている。

 

 長い間作品を作る上で、生活のワンシーンに何気なく溶け込んでいるビーズの存在というものに基本を置いてきた。近頃この姿勢に変化が生じてきたのは、少し冒険をしてみたいという心の欲求なのであろうか。年齢と共に自分ができるテリトリーを意識的に囲ってもよさそうなものを……、何故か私は強く拡散を求めている。

 両てのひらに収まるほどの大きな白いバラとピンクのバラがもう15~6個に増えた。それぞれの花弁にウエーブをかけ、白いバラにはピンク、ピンクには白のビーズでウエーブを強調した。作りながらも私の心は動揺し常に不安がつき纏っていた。こんなに作ってどう収めるつもり? という不安である。

 生活のワンシーンを想像できないで何かを作るなんて、私には無謀な行為なのだが、指が「大きなバラを!」とせかしている。心が「素敵になるはずよ!」と誘惑してくる。こうなれば作りながら自分を納得させるほかはない。

 それでも不安は常にあって、スタッフにも「これってどんな風に飾ったらいいと思う?」と尋ねる有様で、かえって困惑させてしまう。まあしばらくはその辺に放っておいて、様子を見ましょう、ということで気持ちを一段落させた。

 

 病気が癒えるのも時間が必要なわけで、有難いことに私の分身にも解決の糸口が見えてきた。

 唐突ではあるが、私の遠い記憶の中に、古代ギリシア建築における建築様式に”コリント式”というのがあった。本当になんの脈絡もないことで恐縮ではあるが、多分教科書か美術本で見たと思うのだが、その柱の佇まいの美しさに少女の私はほれ込んでしまったようだ。その証拠に海外の旅行先で、これらの柱が屹立している姿を目の当たりにして、幾度も感動したものだ。

 柱の様式はコリント式の他にイオニア式、ドーリア式と3パターンがあるのはよく知られているが、私は柱頭の装飾が植物を模した繊細優美なコリント式の形状に最も強く惹かれている。

 あの大きなバラはきっとその柱頭にぐるりと飾りたいのではないかと自分で自分の心の奥底を推察してみた。大胆な発想である。大きな柱はどうするの? 張りぼての柱にペンキを塗って居間にドーン、でしょうか。

 今思い出したのですが、そういえば、スペインの「カタルーニア音楽堂」にも、ニューヨークの「フリックコレクション」にも太い柱の頭には色とりどりに彩色されたバラ(と想像できる)が囲まれていて絢爛豪華であったことを鮮明に思い起こす。

 記憶の中に時間をかけて積み重なった何かが、ある時訳も分からず噴出する。

 そうそう、気持ちを落ち着けている間に、念願であったジョセフ・ルドゥーテの『バラ図譜』の制作にかかっている。ルドゥテのバラをいかにビーズで再現できるか、この作業も私を時間と空間の旅に出発させてくれる。

 

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