予期せず財宝を手にした夫婦の顛末

貧しくも実直な人生を歩んでいた人が、ある日突然大金持ちになったら……。本書はその顛末の一例を示しながら、人間の欲とはどういうものか白日の下にさらしている。
本書は、貧しいながらも幸せに暮らしていたメキシコインディアンの夫婦が、突然大きな真珠を手にするという設定だが、これを「平凡なサラリーマンだった男が、3億円の宝くじに当たったら」とか「たまたま持っていた土地がバブルで高騰したら」と置き換えて考えると面白い。それまで、豊かになりたいと希望を抱きながら質素な生活をおくっていた人たちが、突然大金持ちになったとき、人はどういう行動をとるのだろうか。あるいは周囲の人間たちはどのような行動をとるのだろうか。
スタインベックと聞けば、反射的に『怒りの葡萄』と連想するが、あまり知られていないが、きりりと引き締まった文体で書かれた素晴らしい小品がいくつかある。とりわけ、『真珠』は、人間の欲という底なし沼のような化け物の正体に迫る珠玉の短編。文庫本で100ページに満たない文量ながら、衝撃は死ぬまで忘れそうにない。
漁夫キーノと妻のフアナは貧しいながらも穏やかな日々を過ごしていた。ある日、生後まもない息子コヨティートがサソリに刺されてしまう。瀕死の幼子を抱いて、急ぎ医師のところへ駆けつけるが、医師は「卑しいインディアンどもが虫けらに噛まれた治療をしてやるのがわしの仕事だと思うのか。わしは医師で、獣医ではない」と言って診ようともしない。
しかし、キーノが大きな真珠を見つけたことが人伝に伝わると、頼まれもしないのに診察にやってくる。子供は治りかけていたが、一時的に症状が悪化する仕掛けをしてそれを治療し、治ったのは自分のおかげだと誇示する。もちろん、金が欲しいからだ。無知な夫婦はまんまと騙される。
キーノが大きな真珠を拾ったという噂が広まるや、欲に魅せられた人間どもが集まってくる。そのなかには司祭や強盗もいた。
キーノとフアナはコヨティートに教育を受けさせたいと夢見るが、その前に真珠を換金する必要がある。キーノが真珠を持って換金に来るのを知っていた強欲な商人たちは、真珠を一見するなり、いかに価値がないものかを説明し、気は進まないがという風情で買値を伝える。彼らは、価値あるものを恐ろしいほどの少額で買い叩くことに喜びを見出すような連中である。
騙されていると気づいたキーノは、商人の言い値を断り、首都へ行って換金することを決断する。その日の夜、キーノは何者かの襲撃を受け、相手を殺害してしまう。
その後、キーノ一家は真珠を持って逃避行をする。追手が迫るなか、キーノたちは砂漠の岩山に隠れながら追手と対峙する。キーノたちを待ち受けているのは……。
本書は話をわかりやすくするためか、いささか恣意的な構成となっている。商人や医師、牧師は悪で真珠を採取する前のキーノ夫妻は善。実際の世の中は、そんなに単純ではないことぐらいスタインベックもわかっているはずだが、あえて極端な色分けをしている。誰の心にも邪悪なものは宿り、大悪人にもわずかながら善があるはず。それが人間だ。ただ、寓話とするにはその間にあるグレーゾーンを表現してはわかりにくくなってしまうため、あえてスタインベックは極端な比喩を用いている。その効果があってか、思わぬ財産をもってしまった平凡な夫婦の悲劇が濃い影を落としながら浮かび上がってくる。
ふと思うことがある。宝くじを当てた人や自分で興した会社を上場させて巨額の金を手にした人の「その後」をまとめた本はないものか、と。さぞかしすさまじい人間模様が展開されていることだろう。
もうひとつ見逃してはならないことは、キーノは真珠がもたらしてくれる富に執着するが、妻のフアナは当初から真珠に不吉さを覚え、海へ戻すべきだと訴える。しかし、夫に聞く耳はない。やがて最も大切な息子を失い、ようやく悟ったキーノは真珠を海に投げ捨てる。やはり、女の方が地に足がついているということか。
金は魔物である。自分が働いた対価としてそれを受け取り、うまく使う。金とうまくつきあうには、それ以外ない。人間にとって難事中の難事であることは疑いない。
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