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第三世界のために歌い、生きたレゲエの神様

file.013『アップライジング』ボブ・マーリィ&ザ・ウェイラーズ

 ボブ・マーリィはパッと見た目、ヘンなレゲエおじさん。しかし、父親は白人の英国海軍大尉であり、ジャマイカ最大の建設会社「マーリー&カンパニー」を経営していた人だったことからもわかるように、血筋は悪くない(母親はアフリカ系ジャマイカ人)。

 ときどき猛烈にボブ・マーリィを欲するときがある。喉から手が出るほどに。いったいあの衝動はなんなのだろうと自分でも正体をつかめない。

 現在、日本で入手できるボブ・マーリィのアルバムはほとんど持っているが、初期の作品はめったに聴かない。泥臭いのはいいとして、曲自体の魅力に乏しいうえ、音楽的にもこなれていない。やはり、アイランドレーベルから発売された10枚に彼のエッセンスが濃縮されていると思っている。特に『ライヴ!』『エクソダス』『カヤ』『サヴァイヴァル』、そしてこの『アップライジング』の5枚はどうしてこんなにシビれるのかと思うくらい、ハートを鷲づかみにされる。

 そのなかでもとりわけ好きなのが、ボブ・マーリィ最後の作品『アップライジング』。この作品を発表した翌年の1981年5月11日、彼は36歳の若さでこの世を去ってしまった。死因は脳腫瘍だった。

 ンチャンチャというアフタービートのレゲエは、お気楽な音楽と思われているフシもあるが、ボブ・マーリィは終始一貫して〝闘うアーティスト〟だった。人種差別に対する怒り、奴隷のごとく虐げられながら飢餓に直面する黒人たちへのエールを歌に込めた。そして〝Get up, stand up〟と激しく鼓舞した。ヒットチャート目当てのお気軽ポップソングとは明らかに一線を画している。それなのに、ボブのつくる作品はメロディアスでどこまでも温かい。ふと口ずさめる音楽なのだ。世界中の人たちに愛される理由がわかる。

 そんなボブも、この最後のアルバムでは闘志を剥き出しにすることがなくなった。人間的に丸くなったのだろうか。しかし皮肉なことに、それだからこそさらに説得力が増している。彼の言うことは正当だと思わせる空気感がみなぎっているのだ。これまた皮肉なことに、そういう風格を得て彼は天に召された。彼の死から教訓を得るとすれば、なにかに対して抗議する際、感情にまかせてはいけないということ。冷静になり、相手にも一部の理があるかもしれないという姿勢で自分の気持ちを伝えることによって、伝達力は数段増す。

 このアルバムにはいいメロディーの曲が目白押しだ。「カミング・イン・フロム・ザ・コールド(Coming In From The Cold)」「バッド・カード(Bad Card)」「ワーク(Work)」「ジオン・トレイン(Zion Train)」「ピムパーズ・パラダイス(Pimpesd Paradise)」「クッド・ユー・ビー・ビラブド(Could You Be Loved)」……。ポップなのに既成の権力や常識に抗うロック本来の原初的な衝動を内臓している。とりわけラストを飾る、生ギター1本で歌う「リデムプション・ソング(Redemption Song)」は、ボブのこの世への惜別の歌に思えてしかたがない。ジム・モリソンの「ライダース・オン・ザ・ストーム」が遺言状のように聴こえるのと同じように。

 ジャケットも印象的だ。両の拳を突き上げるマーリィのドレッドヘアと背後の山なみの稜線が重なる。山際から赤々と太陽が顔を出している絵が最後の作品のジャケットになろうとは……。

 

 ボブ・マーリィについて、簡単に記すとしよう。本名は、ロバート・ネスタ・マーリィ。1945年2月6日、ジャマイカに生まれた。そのとき父親は61歳、母親は16歳だった(両親はボブの誕生後すぐに離婚)。ボブはのちに「父は自分と母を捨てた憎むべき男だ」と語っている。この思いがあったからこそ、彼はほかに支えとなるものを求めたのかもしれない。

 ボブが世界の音楽シーンに注目されるきっかけになったのは、1973年にメジャーデビューを飾ったアルバム『キャッチ・ア・ファイヤー』の約半年後に発表した『バーニン』に収められていた「アイ・ショット・ザ・シェリフ(I Shot The Sheriff)を、エリック・クラプトンがカバーし、全米チャート1位を獲得してからだ。クラプトンのカバーは純然としたレゲエのリズムとは言い難いが、それまでのロックにはない新鮮味をもたらした。それをきっかけに、ボブ・マーリィの名は世界に知られることとなり、その後、精力的にアルバムを発表し、世界ツアーも行った。

 政治的なメッセージを発するボブは、ある日、災難に見舞われた。1976年12月3日、コンサートのリハーサル中、武装した6人の男に胸と腕を撃たれるのだ。幸い、命に別状はなく、2日後に予定されていたコンサートにも出演した。公演の最後には服をめくって胸と腕の傷を観客に見せつけた。後にこのコンサートに出演した理由を尋ねられたとき、ボブは「この世界を悪くしようとしている奴らは休んでいない。それなのにどうして俺が休めるか?」と返答した。

 1981年、ジャマイカ政府からメリット勲位が、1978年、アフリカ諸国の国連代表派遣団から第三世界平和勲章を授与される。しかし、その後、病状が悪化。5月11日、妻と母に見守られながら他界した。

 ボブの死の速報は全世界を駆け巡った。死の3年後に出されたベストアルバム『Legend』は、世界中で3,500万枚もの売上を記録し、いまなお売れ続けているという。

 私にとって悔やんでも悔やみきれないのは、いまだに語り継がれる1979年の初来日公演に行けなかったことだ。どうしても日程のつごうがつかず、そのうちまた日本に来てくれるだろうと軽い気持ちでいた。こんなことになるのなら、万難を排してコンサートに行けばよかった。後悔のない人生はないだろうが、いまだにそのことを後悔している。

(1980年作品)

 

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