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紺碧の将

〝いいとこどり〟が得意な作曲家の、〝いいとこどり〟のお手本

file.014『ピアノ協奏曲第1番』J.ブラームス

 いままでに2度、「ブラームスのピアノ協奏曲はどちらが好きですか」と訊かれたことがある。2度目に訊かれたとき、はて? どうしてそういう質問になるのだろうと思った。さほど深い意味はないのだろうが、ブラームスはピアノ協奏曲を2つしか作っていないのと、その2曲があまりに性格が異なるため、どちらを好むかで、あるていど音楽的嗜好がわかるという理由なのではないか。

 それはともかく、私の答えに迷いはない。「1番の方です」。

 2番もそれなりに魅力的な作品だが、平たく言えば、勉強も運動もそこそこできて性格も申し分ないのだが、なんとなくその人独自のキャラクターがはっきりしないという人に似ていなくもない。もちろん、そういう人がいたとして、それはそれで立派なのだが。

 ピアノ協奏曲というジャンルは激戦区だ。モーツァルトの20〜27番やベートーヴェンの5曲をはじめ、とんでもない作品が目白押しだし、チャイコフスキーやラフマニノフ、スクリャービンらのロシア勢も黙ってはいない。ピアノのソリストがオーケストラと共演するという形式は、時代が変わっても相当魅力的である。それらのなかにあっても、ブラームスの1番はキラリと光っている。マッチョなほどダイナミックなのに、貴婦人のように優雅。その2面性を高いレベルで結実させる芸当はそうそうできるものではない。

 

 ヨハネス・ブラームスは、バッハ、ベートーヴェンとともに、ドイツ音楽の「三大B」とも称されるが、バッハやベートーヴェンに比べ、「これがブラームスの作風」という際立った印象が薄い分、格下に見られることが多い。

 その要因は、ブラームスが〝いいとこどり〟をしているからだろう。ベートーヴェン風の重厚なダイナミズムをベースにしていながら、ロマン派特有のリリシズムを湛え、ドイツのトラッドでローカルな音楽への愛着もある。そうかと思えば、バッハやモーツァルトら、偉大な先達への畏敬も厚く、それらのエッセンスを血肉にしている。つまり、驚くほど守備範囲が広い、ユーティリティープレイヤーなのだ。そういう人だから、作風の印象が薄くなるのは当然かもしれない。

 それゆえにか、同時代のリストやワーグナーらからは、保守的で時代遅れの音楽だと批判された。のちにシェーンベルクにも影響を与えるほど先進性があったのに、批判の的にされた。それもこれも、器用すぎるがゆえの反動であろう。

 

 ブラームスの最初のピアノ協奏曲は1858年に作曲され、その翌年に初演された。なんと、この初演は信じがたいほど不評だったという。どういう理由からか、聴衆は次々と野次を飛ばした。ブラームスは友人に宛て、「自分の道を進むだけだが、それにしても野次の多さには辟易した」というようなことを書いている。しかし皮肉なもので、今では世界中で愛され、最も演奏される回数の多いピアノ協奏曲のひとつとなっている。

 ソリストとオーケストラの均衡にばらつきがあるとか、オーケストレーションが未熟などと指摘する専門家もいるようだが、どのあたりがそうなのか、素人にはまったくわからない。当時、「ピアノ助奏つきの交響曲」とみなされていたくらいだから、たしかにオーケストラは壮大だ。交響曲といってもさしつかえないほどスケールが大きく、しかも緻密だ。そのうえ、ピアノの聴かせどころも随所にある。

 私が好きな演奏は、クリスティアン・ツィンマーマンの2枚(レナード・バーンスタイン+ウィーン・フィル、サイモン・ラトル+ベルリン・フィル)だが、ときどき、物議を醸したあの一枚を聴きたくなる。グレン・グールドとバーンスタインが共演した1962年ライブ録音だ(オーケストラはニューヨーク・フィルハーモニック)。

 なんと演奏に先立ち、バーンスタインが4分以上に及ぶ異例のスピーチを行った。「心配しないでください。ミスター・グールドはちゃんと来てますから……」で始まり、曲の解釈でグールドとぶつかり、どうしても納得できないまま指揮をすることになったことのエクスキューズをユーモアを交えて説明している。

 バーンスタインはグールドの解釈について、〝肯定的に〟次の3点をあげている。

・この曲を新たな視点から見ている

・驚くべき新鮮さと説得力をもって迫ってくる瞬間がある

・思考する演奏家(グールドのこと)から何かを学ぶことができる

 とはいえ、きわめて不本意だったことは隠しようがない。「協奏曲に置いてソリストと指揮者はどちらがボスか?」という聴衆への投げかけは、本質的な問いでもある(このとき、グールドは舞台の袖で笑っていたという)。彼は「冒険精神にのっとって」とまで言い添えて(やむなく?)タクトを振った。

 たしかにバーンスタインの言う通りだ。恐ろしいほどにテンポが遅く、かなり間延びした音楽に聞こえる。モタモタしているようにも感じる。

 なぜ、グールドがそのような演奏を選んだのかについて、曲のあとのインタビューで答えている。それによれば、従来の、男性的な第1主題と女性的な第2主題の対比、あるいは吠え立てるオーケストラと穏やかなピアノの対比という捉え方ではなく、両者がもっと緊密に、一体化するような表現を試みたかったという。反面、そのアプローチでは劇的な盛り上がりに欠け、手兵を操ってドラマチックに仕上げようと思っている指揮者にはとうてい容認できないものだったのであろう。

 おまえはどう思うかって? そうだなあ、別の曲だと思って聴けば、それなりにいいんじゃない? グールドの、表現に細心の意識をはらい、自分なりの解釈を極めたいという執念は感じた。それでじゅうぶんではないか。

(右写真/ヨハン・シュトラウス2世とともにいるブラームス)

 

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