第16回タカタラ賞、発表!
今回は秋の院展から。
院展と言えば、日本3大公募展のひとつ。かの岡倉天心が創設した日本美術院(東京美術学校)の流れを汲む。
とても不思議なのは、天心自身が絵を描いていなかったにもかかわらず、多くの才能ある画家が彼に附いていったこと。天心が東京美術学校を排斥されると、横山大観や下村観山など院の俊英たちはこぞって退学し、天心とともに都落ちして茨城県五浦に移り住んだ。その地で彼らは新しい日本美術を模索する。世間の評価や収入に頓着せず、一心不乱に描き続けた。それは壮絶な闘いだった。
大観はこう語っている。
「画論に気韻生動ということがあります。気韻は人品の高い人でなければ発揮できません。人品とは高い天分と教養を身につけた人のことで、日本画の究極は、この気韻生動に帰着するといっても過言ではないと信じています」
そういう信念のもと、彼らは朦朧体など新たな表現方法に取り組み、近代日本画の礎を築いた。
私はその流れが好きだったため、『Japanist』でも多くの院展画家に取材をし、誌面で紹介してきた。
しかし、近年の院展の停滞ぶりは目を覆うばかりである。硬直したマンネリズムに陥っていると感じているのは私だけではないだろう。画題は旧態然としたものばかりで、新たな画風を切り拓くという気概が感じられない。「こういう絵を描いておけば入選するだろう」という魂胆が見えてしまうのだ。もちろん、なかには勇気をもって独自の画風を切り拓きたいと思っている人もいるにはちがいない。しかし、あまりに少ない。
そのような組織を根底から変えるには、上層部を一新する以外にないが、既得権益を得ているオジサンたちがそれを手放すとも思えない。結局、なるようにしかならないのだろう。今後しばらく、院展に足を運ぶことはないかもしれない。
……と、苦言はこのへんにして、7点ばかり紹介したい。
加藤厚「翠雨」。さすがに大観賞を射止めただけあって、気宇壮大だ。田植えを終えたばかりの田んぼの畦道を多くの子供たちが傘を差して歩いている。子供たちの列を境に遠景と近景が混じり合っている。情趣豊かだ

野口満一月「雨の贈り物」。クモの巣は惚れ惚れするほど美しい。ことに水滴がついた様子は、どんな造形作家もかなわないと思わせる。この作者もそう感じたのだろう。それを巧みに描いている。ただ、一本の糸で上からぶら下がっているクモはいらない。後光がさしている様子も作為的で気に障る

廣藤良樹「樹塊」。おどろおどろしい大樹の姿がすさまじい。まさに神の化身。色彩がないだけに、想像力をかき立てられる

澤村志乃武「裝束」。華やかな装束を着せられたお馬さんが並んでいる。左下の黒い地面が絵全体に動きと安定をもたらしている

小川国亜紀「いつくしみ」。白い絵の具が見せ場をつくっている。神々しい。ただ蝶の乱舞はどうなのだろう

岩谷晃太「夜を渡る」。無機的な風景のなかで、交わらない人間たち。なぜか近未来をイメージさせる

秦誠「能登―白雨」。ときには素朴な画題もいい。雨を白で表現しているのは秀逸。能登といえば能登鹿島駅が桜で有名だが、ここはどこ?

(260920 第1336回)
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