究極の美を求めた3人のモノローグ

本題に入る前にひとこと。
小学生の頃からずっと読書が好きだった。興味のおもむくまま、さまざまなジャンルの本を読んできたが、その中核をなすのは、小説や詩歌など文学書である。なぜ、それほどまでに文学書を読むのか。
もちろん、読んでいてオモシロイというのが一番の理由だが、プラス、この不可思議で得体の知れない人間という生き物を探求するうえで、文学書は格好のテキストだと思っているからだ。
誰しも自分の人生は一度きり。複数の人生を味わうことはできない。しかし、小説や詩歌に没頭することによって、自分以外の人生の醍醐味や機微を味わうことができる。それらはあくまでも疑似体験だが、作品が精巧であればあるほど、あたかも自分が体験したかのような感慨を得ることができる。そこには思いもよらぬ考え方だったり、体験だったり、人と人が織りなす作用反作用がある。
思想・哲学・宗教書も人間探求にほかならないが、それらはビッグデータ的なアプローチであり、左脳で理解するものといえる。個々の疑似体験をさせてくれるものではない。しかし、文学書は実体験に準じたものとして自己に落とし込むことができる。私は5冊ほど並行して読むのが習いとなっているが、そのうち4冊は文学書が占めている。「読んでいて話がグチャグチャにならないですか」と訊かれることがあるが、そんなことはない。
そんな文学好きの人間であるが、好きな作家を3人あげろと言われれば、まずは乙川優三郎。数年前、「ああ、自分はこの人の本を読むためにこれまでたくさんの本を読んできたのだ」と得心がいった。次いで、乙川氏が文章の手本とした芝木好子。この人の作品の主人公は、芸術や工芸の世界でひたむきに生きる女性が多いが、その清冽な筆致に圧倒される。もう一人は辻邦生をあげる(隆慶一郎も候補ではあるが)。この3人の著作はいずれも本質そのもので、時代を越えて残るべき本だと思うが、残念ながら大半は絶版になっていて、中古本でしか手に入らない。いい本が時代を越えて残るとは限らないのだ。こんなところにも、現代の出版界の一端が垣間見える。
さて、ようやく本題に。
今回紹介する『嵯峨野明月記』は、戦国時代末期から江戸初期を舞台に、本阿弥光悦・俵屋宗達・角倉素庵の3人によって刊行された「嵯峨本」という超豪華アート本の創作に関わる心情を、それぞれのモノローグというスタイルで表現した作品である。本阿弥光悦と俵屋宗達はよく知られているが、角倉素庵は豪商・角倉了以の息子。当代随一の文化人たちが、いかに書物を愛していたかが窺い知れると同時に、当時の政治的な状況もわかる。
嵯峨本とは、木材に彫った活版によって印刷した本をいう。それまで、書物といえば、原本をそのまま写す写本を指したが、同じ本を大量につくる技術が発達したのである。当時、紙はきわめて高価で貴重なものだったが、嵯峨本で使われた料紙は美の極みとも言われるものだった。光悦・宗達・素庵の3人は、あたかも少年のように豪華本の制作に熱中するのである。
なんといっても最大の魅力は、辻邦生の真骨頂とも言える耽美的な文章。彼の文章を読むだけで、得も言われぬ感動を得る。永遠に読み継がれてほしい作品だ。ひとつ難を言えば、ほとんど改行がなく、気力・体力が充実したときじゃないと真っ向勝負ができないこと。
そう、読書とは著者との勝負事なのである。
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