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あらゆる可能性や変化を受け入れることのできる受容性

file.222『般若心経講義』高神覚昇 彩図社

 

 本来、本(書物)には人類の叡智(真理)が書かれていた。だからこそ稀有なものであり、高価で、おいそれとは読み解けない孤高の物であった。紙はきわめて貴重なものだったから書き残すに値しないようなものが本に記されることはなく、それゆえ本は崇拝の対象にさえなっていた。

 そんな〝本来の〟本の代表格が聖書や仏典など宗教の教義であり、『論語』や『老子』などの思想書であり、『万葉集』や『源氏物語』や『神曲』などの文学であった。今回取り上げる『般若心経』もまた、そういう類の本のひとつと言っていい。

『般若心経』は正式な名称を『般若波羅蜜多心経』(はんにゃはらみったしんぎょう)という。本書によれば、「般若」とは智慧を、「波羅蜜多」とは彼岸に至る道、すなわち人生のゴールに至ること、「心」とは真髄や核心を、そして「経」とは聖人の説いた真理を表すという。タイトルにこの書物の要諦が簡潔に表されている。

『般若心経』の起源は4世紀末、鳩摩羅什(くまらじゅう)という仏僧がシルクロードを経てインドから中国へ渡り、サンスクリット語(梵字)で記された経典を漢語に翻訳したことが始まりとされている。鳩摩羅什とは、『西遊記』で知られる三蔵法師のこと。のちに三蔵法師となる玄奘(げんじょう)が、大乗仏教の教義として600巻の膨大な経典にまとめたのが『般若心経』のおおもとである。

 現在、流布する『般若心経』はその簡略版ともいえる。なんと上記の膨大な経典が、わずか262文字に集約されている。だからこそ人々の間に浸透したといえる。600巻の大部のままでは、これほどポピュラーな書物にはならなかったはず。

 しかし、文字数が少ないとはいえ、その真意を読みとるのは容易ではない。それゆえ『般若心経』の解説本は無数にある。なぜこのコラムで本書を取り上げたかといえば、芝田清次という叶匠壽庵(和菓子の会社)の創業者が、事業を起こす前、苦境に陥ったとき高神覚昇の『般若心経講義』を読んで心の養いにしたと『花雲水』に書かれていたことと、松下幸之助が愛読していたということが決め手になった。他にもすぐれた『般若心経講義』の解説本はたくさんあるにちがいない。

 

『般若心経』と聞けば、反射的に「色即是空、空即是色」という言葉が想起される。ここで言われる空(くう)がクセモノだ。『般若心経』と禅はかなり重なるところがあるが、禅の「無」もまたクセモノ。現代人が巷間使っているそれらの言葉の意味と異なるから、よけいにややこしい。

 ひとことでいえば、空とは「固定した実体はなく、関係性の中で絶えず変化する状態」を指す。現代の感覚では、空は空白や欠けているものととらえやすいが、むしろあらゆる可能性や変化を受け入れることのできる「豊かな受容性」というような意味に近い。「近い」と書いたのは、これが100%正解という概念ではないからだ。禅の無も、なにもない状態ではなく、「ないという状態」があるというような意味(ととらえている)。とにかくややこしい概念だが、いくつかの例を示せば、なるほどと合点がいくかもしれない。

 例えば、さまざまな機能を併せ持った和室、能をはじめとした伝統芸能にある一瞬の静寂や余韻、日本画にしばしば見られる余白、人と人の適切な間合い、季節の合間の土用など、これといった実体はないが、とても有用なはたらきをする「間」は、空の概念に近い。

 一休和尚と山伏の逸話を引き、一期一会を説明するくだりが面白い。ある山伏が一休和尚に向かって、「その仏法はいずこにありや」と詰問する。すると一休は「胸三寸にあり」と答える。それに対して山伏は懐のなかから小刀を取り出し、「しからば拝見いたそう」と言ってつめよる。すると一休は一首の和歌を口にし、その答えとする。

 

  としごとにさくや吉野のさくら花樹をわりてみよ花のありかを

 

 ことほどさように、人間は視覚に映るものしか信じようとしない。春になれば桜の花の〝素〟はあきらかにあるはずなのに、樹を切り裂いてみてもそれらしきものは見えない。あるのに見えない、真理とはそういうものだろう。

 高神覚昇はこう綴る。

 ――眼に見える有形の物質と、眼に見えぬ無形の精神とが集まってできている、この世界じゅうのあらゆる存在は、皆ことごとく空なる姿、すなわち「空なる状態」にある。

 本書には、正解のない問いに対する鋭い考察があふれている一方、頑迷固陋としか思えない硬直した断定も散見される。要は読者がどのように受け取り、どう解釈し、自らの人生にどう活かすかであろう。

 

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