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学びとは? その本質が凝縮された知の泉

file.220『知の体力』永田和宏 新潮新書

 

 本書の表紙を繰ると、カバーの折り返し部分に次のようなコピーがある。

――「答えは必ずある」などと思ってはいけない。〝勉強〟で染みついた呪縛を解くことが、「知の体力」に目覚める第一歩になる。「質問からすべては始まる」「孤独になる時間を持て」「自分で自分を評価しない」「言葉にできないことの大切さとは」……。

 わが意を得たり! と快哉を叫びたくなってくる言葉が続く。事実、その大部分が、おりにつけ私が言ってきたことと重なる。ただ、私が唱えてもほとんど説得力はないが、世界水準の細胞生物学者にして日本を代表する歌人でもあり、京都大学や京都産業大学で教鞭をとっている著者が唱えているのだから、言葉の重みはちがう。

 永田氏は高校までの「学習」と大学に入ってからの「学問」は異なるという。どう違うのか。彼は学習をこう定義する。

①学習の問いには答えがあり、しかもその答えは、多くの場合、誰が答えても同じ内容に到達するはずのもの。すなわち客観的な正解があるということを前提としている。この正解は、問いとして与えられる前から問う側には知られているものである。

②先生は教える人であり、生徒は教えてもらう側という、役割分担によって成り立つのが学習の基本である。

③先生が教えることは正しいことであり、生徒はその正しい知識を習得するということが、学習の基本である。

④生徒の誰もが落ちこぼれないように、そして理想的には、誰もが同じ到達点に到るのが学習の目標である。

 それに対し学問は、学び、それを受け入れるという一方的な「知」の流れではなく、入ってきた「知」をいったん堰き止めて、それが正しいのか問い直す、どのような意味を、あるいは価値を持っているかを問い直す。そのような「問う」という行為を加えたところに学問の意味があるのだと。

 たしかに初等中等教育には「正しい答え」がある。先生が知っているはずの正しい答えと自分のものが一致すれば正解で、違っていればバツ。それが入学試験も含めて、高校までの試験のルールであったが、そんなものはどんなに覚えても社会で役立つとは限らない。

 

 こういう記述もある。

――「広辞苑」は「問題」に4つの意味を載せている。①問いかけて答えさせる題。解答を要する問い、②研究・議論して解決すべき事柄、③争論の材料となる事件、④人々の注目を集めていること。このうち答えがあるものは①だけ。そして、実社会での問題と言えば、②から④までどれをとっても、それには答えがない。あるいは解答や正解を前提としないものである。問題には必ず答えがあるという前提は社会では通用しない。誰かに尋ねれば、必ず答えがあるはずだ、与えてくれるはずだという依存性から脱却する必要がある。

 

 不肖私も学生時代、それに似たような思いがあった。試験勉強のために暗記することと古今東西の文学書を読むことはどちらが大切なのだろう、と。もちろん、基礎的な学力は必要だ。それがなければ、先人たちが遺した文化遺産を読み解くことができなければ、それらを自分なりに咀嚼して〝考え直す〟こともできない。しかし、必ず正解がある試験問題は、社会という広い世界を見渡したとき、あまりにも狭い世界だと思えた。その優劣だけで人間の力を測るのはどうなのだろうとずっと疑問だった。いま思えば、そういう思いはその後の自分にとって、とてもプラスになっていたのだ。それを永田氏がつまびらかにしてくれた。

 本書のタイトルである「知の体力」について、著者はこう説明する。

――将来の人生に起こることは、すべて想定外のことなのである。想定外の事態を、なんとか自分だけの力で乗り越えていかなければならない。生きるとはそういうことである。

 運動をするにはそれなりの基礎体力をつけなければならないのと同様に、これから何が起こるかわからない想定外の問題について自分なりに対処するためには、それなりの体力が要求される。私はそれを「知の体力」と呼んでいる。

 

 まったく同感である。

 こうも書いている。

――教科書には唯一、書かれていないことがある。それは「わかっていないこと」である。

 

 ソクラテスの言う「無知の知」であろう。誰もが同じ答えに到る試験問題を数多く解くことの弊害をあげるとすれば、自分が何も知らないという事実に気づけないということではないか。

 しつこいようだが、もうひとつ、抜粋したいところがある。

――学生が大学に入って、もっとも経験して欲しいことは、自らの可能性に気づくということ以外ではない。それは、自分が他人と、あるいは友人たちと違っているということを意識することからしか始まらない。できるだけ周りと違っている部分には封印しておこうという態度からは、自分が持っているかもしれない可能性に気づくことは不可能である。

 

 周囲との摩擦を避け、自分を表出しないことと協調性うんぬんは別の次元の話である。

 ここであることに気づく。本書は学生向けに学びの本質を説いたものであることに。永田氏はここで書いたことが多くの学生に受け入れられるという希望をもっているはずである。そうでなければ、これほど徒労の多い作業はないのだから。そう考えると、永田氏が相手にしている学生のレベルの高さにあらためて驚くのである。

 

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