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紺碧の将

残酷なのに優しい。人生100年時代と姥捨伝説

file.048『楢山節考』深沢七郎 新潮文庫

 

 平均寿命がどんどん伸び、ついに「人生100年時代」と言われるようになった。これはこれで、ある人たちにとっては喜ばしいことにちがいない。

 しかし、すべての人にとって、そうだと言えるだろうか。まして、すべての人間の集合体といえる社会にとっては。

 そう思いながら、周りの老人たちを見る。60歳を超えている私にとって、けっして他人事の目線ではない。近い将来、自分が当事者になることを前提に、参考にしたいのだ。その結果、長寿を享受している人と苦しんでいる人がいることに気づく。

 メディアは長寿社会の不安ばかりを煽る。老後資金は? 老後、健康でいられるか?

 長生きを担保できる老後資金が手当てできるのは、ごく一部の人たちだけだ。これはどんなレトリックを用いようが隠しようのない事実であるし、またどんなに政治家に文句を言ったところで意味がない。ないものはないのだから。打ち出の小槌は物語の世界だけ。さらに、平均寿命と健康寿命の差が10年以上もあることからわかるように、人の世話にならなければ生きていない事態になることも想定する必要がある。

 長寿社会の大敵は老後資金と健康問題と理解したうえで、私は、最大の課題は、いかにして膨大な〝可処分時間〟を有意義なものにできるか、だと思っている。自分の役割もなく、生きがいもなく、やりたいこともなく、だらだらと長生きすることが幸福だとはとても思えないからだ。〝天意重夕陽 人間貴晩晴〟の言葉通り、人生の終盤が充実していなかったら、すべてが虚しい。

 そのような前提を踏まえたうえで、深沢七郎が書いた『楢山節考』を読むと、多くの貴重な示唆が含まれていることがわかる。

 本書は民間伝承の棄老伝説を題材とした作品だが、「生きるとは?」「死ぬとは?」という人間にとって根源的な問いに真っ向から応える、危険な書といえる。そう、正真正銘の危険な書なんである。

 なにしろ生命が絶対視される現代において、ここに描かれている内容は、戦争と同じくらい残酷と言っていい。ある一定の年齢に達したという理由で、自分の親を捨てるのだから。こんな非人間的な話があるものか。薄っぺらなヒューマニズムに染まった人たちは、そう批判するだろう。

 しかし、とても不思議なのだが、この作品に描かれた〝おりん〟は嬉々として捨てられようとする。なるべく早く捨てられるよう、自ら石で自分の歯を折ろうとまでする。歯がなければ食べることはできない。そんな状態になれば、息子も自分を捨てやすいだろう、と。

 なぜ、そうするのかといえば、自分が死ぬことによって、ほかの人間(この場合は家族)が一人、生きることができると知っているからだ。村の掟に従うというより、自ら率先して末期の善行を求める。遅かれ早かれ、人は死ぬ。そうわかりきったうえで、他者のために死ぬことこそ、自分の役割だと思っているのだ。それを頑迷な風習と断定する権利はわれわれ現代人にはない。

 

 をばすては信濃ならねどいづこにも月澄む峰の名にこそありけれ

 

 西行の歌である。「信濃ならねど」とあるのは、当時も信濃地方で姥捨の風習があるのを伝え聞いていたのだろう。「そう言われているが、実際はどこにもあるよ」と。つまり、わが国にはあちこちの地方に姥捨の風習があったのだ。食料が不足しているため、そうせざるをえなかった。

 終戦直後まで、国民全員が生涯にわたって食料を確保するのは容易ではなかった。一方で、衛生環境や栄養状態から、ある程度たくさん子供をつくらないと一族が絶えてしまうという現実もあった。子供をつくらないのは良くないこと、しかし、つくりすぎるのもよくないこと。人類の歴史は、そういう時代の連続だったと言っていい。そういう時代とは対極の、飽食の現代に生きるわれわれにとって、その日の食べ物がないという現実は想像すらできない。

 当時42歳の深沢七郎の処女作である本作品は、第1回中央公論新人賞を受賞した。選者は伊藤整・武田泰淳・三島由紀夫という、きらめくばかりの面々。3人ともこの作品に強い衝撃を受けたと語っている。これまでに2度、映画化され、さまざまな言語に翻訳されている。

 物語は、山深い貧しい集落の因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てに行くというもの。自ら進んで「楢山まいり」を早めたいと考える家族思いの母おりんと、孝行息子・辰平との間の無言の情愛が、行間からたちのぼってくる。ほとんど会話がないのに、ふたりは濃密な言葉を交わしている。

 やがて〝その日〟を迎える。辰平は母を背板に乗せ、一歩一歩、山を登っていく。読みながら辰平の心境に分け入り、涙を抑えることができなかった。もし、自分が辰平だったらどんな思いにかられているだろう。つかの間の親子の密着をどう味わっているだろう。楢山に母を置いて帰ってくるとき、どんな気持ちなのだろう。母を直視できるだろうか。いくら掟とはいえ、そんな残酷なことができるのだろうか。母はどういう表情で自分を見送ってくれるのだろうか。最後にどんな言葉をかけてあげるべきか……。ふだん考えることのない想念が頭のなかを渦巻いた。

 じつに不思議なことだが、描かれている状況はますます厳しくなっていくのに、温かいものが心の奥底から湧き上がってくる。

 棚からぼたもちのように長生きをもらえる現代人には、まちがっても味わえない感懐がここにはある。これこそ小説の力だろう。

 

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