死ぬまでに読むべき300冊の本
HOME > Chinoma > 死ぬまでに読むべき300冊の本 > 人間の本質を省察した辛辣な言葉たち

ADVERTISING

紺碧の将

人間の本質を省察した辛辣な言葉たち

file.049『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳 岩波書店

 

 情と理。

 人間の心は、両者が均衡してこそバランスがとれると思っている。どちらが勝ちすぎても均衡を失う。強いていえば、情が6、理が4くらいの割合だろうか。人間にとって情は欠かすことのできないものだが、そればかりではもろくフラフラしてしまう。情に厚いのは悪いことではないが、感情的になり過ぎるという欠点と裏表だ。情があるのに理知的で冷静、となるには、理を構築できる思考が不可欠だ。

 では、どうやって両者を育くめばいいのか。完全な答えがないのは明らかだが、それらの端緒は、情が母からの慈愛によって、理が父からの義愛によって育まれるとする儒教の人間観察は正しいと思う。

 では、物心ついたあとはどうか。

 情は、高い人格を有する人と交わって感化されたり、さまざまな芸術を通して美にふれたり、自然のなかに身をおいて感性を育むことが有効と考える。いっぽうの理は、人間の本質を探求した東洋古典思想や西洋のモラリストによる思想にふれることではないか。

 モラリストとは、人間の本質を省察して、それを箴言のような文章形式で表した人たちをいい、16世紀から18世紀においてヨーロッパで活躍したラ・ロシュフコー、モンテーニュ、ブレーズ・パスカル、ラ・ブリュイエールなどフランス語圏の思想家を指すことが多い。彼らによる人間探求は、のちのフランス文学に脈々と息づいている。

 なかでも、まっさきにラ・ロシュフコーの名をあげたい。正確には、ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世といい、1613年、フランスに生まれた。名前からわかるように、貴族である。モラリストたちがマキャヴェリの影響を受けたと指摘する人はあまりいないが、よけいな感情移入をすることなく人間の本質を怜悧に見つめたという点において、ラ・ロシュフコーはマキャヴェリの影響を大きく受けたと私は思っている(マキャヴェリは1469年生まれ)。

 ラ・ロシュフコーはどのようにして人間観察力を培ったのか。おそらく、従軍による経験がそうさせたのだろう。彼は三十年戦争など多くの戦争に従軍した。過酷な状況に身を置くことによって、人間の本質を見つめたにちがいない。

 日本人は直截にものを言うことを避ける。京都に残る「いけず」はその典型だが、言葉の背後にある真意を読み取れ、ということである。それは言い換えれば、本音と建前がはっきり分かれているということ。いっしょに飲みたくない相手に、つい「こんど、いっしょに飲みましょうよ」と言ったり、あまり会いたくない相手に「こんど、遊びに来てください」と言ってしまうのは、そのような文化的背景があるからだ。その真意を理解せず、〝遊びに行ってしまう〟人は、よほど鈍感力がある人だということになる。

 かくいう私も日本人の端くれだが、なぜか子供の頃から日本人独特の二枚舌が好きではなかった。なぜそうなのか、自分でも不思議だったが、最近、わかった。フランス文学に親しんでいたからだ。そんな人間が、そのフランス文学の源流ともいえるラ・ロシュフコーの箴言集を嫌いなはずがない。

 では、どんな箴言が含まれているのか。「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳にすぎない」で始まる珠玉の箴言集の一端を照会しよう。

 

 ――欲で目が見えなくなる人があり、欲で目を開かれる人がある。

 ――断じて媚は売らないと標榜するのも一種の媚である。

 ――賞賛を固辞するのはもう一度誉めてほしいということである。

 ――短所でひき立つ人もいれば、長所で見劣りのする人もいる。

 

フムフム。辛辣な言葉が多いが、驚くほど的を射た人間観察である。 

 これらの言葉を聞いて、思い当たるフシのある人も多いはず。「たしかに! あの時の彼の言動はその通りだった」とか、「自分にもそういう面が明らかにあるな」などと。

 もう少し、あげてみよう。

 

 ――情熱はしばしば最高の利口者を愚か者に変え、またしばしば最低の馬鹿を利者にする。

 ――もしわれわれに全く欠点がなければ、他人のあらさがしをこれほど楽しむはずはあるまい。

 ――小さなことに熱中し過ぎる人は概して大きなことができなくなるものだ。

 ――人は決して今思っているほど不幸でもなく、かつて願っていたほど幸福でもない。

 ――およそ忠告ほど人が気前よく与えるものはない。

 ――大きな欠点を持つことは大きな人物にしか許されない。

 ――金に目もくれない人はかなりいるが、金の与え方を心得ている人はほとんどいない。

 ――欠点の中には、上手に活かせば美徳そのものよりもっと光るものがある。

 ――親友が逆境に陥った時、われわれはきまって、不愉快でない何かをそこに見出す。

 ――われわれは自分によくしてくれる人に会うよりも、自分がよくしてやっている人に会うほうが好きである。

 

 どうだろう? 人間という生き物の真の姿そのものではないか。

 最後にひとつこれを。

 

 ――色事とまったくかかわったことのない女は見出せるが、一度しか色事を持たなかった女はめったに見つからない。

 

 色事を知った女性は、その後、それなしではいられないということだろうか。フムフム。

 

本サイトの髙久の連載記事

◆「多樂スパイラル」

◆ネコが若い女性に禅を指南 「うーにゃん先生の心のマッサージ」

◆「偉大な日本人列伝」

 

髙久の近作

●『葉っぱは見えるが根っこは見えない』

●『FINDING VENUS ガラスで表現する命の根源と女性性』

 

お薦めの記事

●「美し人」最新記事 画家・岩井綾女さん

●「美しい日本のことば」

間と書いて「あわい」。古典読みなら「あはひ」。音の響きからでしょうか。続きは……

https://www.umashi-bito.or.jp/column/

ADVERTISING

Recommend

記事一覧へ
Recommend Contents
このページのトップへ