死ぬまでに読むべき300冊の本
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紺碧の将

弓を引こうとしない、的に当てようとしない

file.098『弓と禅』オイゲン・ヘリゲル 稲富栄次郎・上田武訳 福村出版

 

 禅のとらえ方には2種類ある(と思う)。ひとつは仏教としての禅宗、もうひとつは思想としての禅(ZEN)。もちろん、両者は明確に分類できるものではないが、そういう分け方をしてもあながち間違いではないだろう。

 私は信仰心はあるが、宗教心はない(と思っている)。なにか計り知れない、人智の及ばない存在は信じており、それを崇敬する気持ちはあるが、特定の宗教に帰依するつもりはない。たとえ教義にある種の共感を覚えたとしても、一定の距離を保っていたい。そんな人間ではあるが、自分なりのアプローチで毎日禅に親しんでいる。「考え方のひとつとしての禅」にとても興味があるのだ。

 禅を世界に広めた第一人者は鈴木大拙だということに異を唱える人はいないだろう。そしてまた、この『弓と禅』という書物も禅のインターナショナル化に大きく貢献した。かのスティーヴ・ジョブズが愛読していたという宣伝効果もあいまって、この本を知る外国の教養人は少なくない。

 著者のオイゲン・ヘリゲルは、ドイツの哲学者で、1924年に東北帝国大学に招かれて来日し、5年間日本に滞在した。その間、東北帝国大学弓道部師範の阿波研造から弓道の指導を受けたことが本書を執筆するきっかけになった。

 日本語訳がぎこちないという理由もあるが、本書を一読しただけでは主旨を理解することは難しい。禅問答と同じように、現在の世の常識という尺度をあてがっては、まったく的外れになる。あたかも、身長を測りたいのに体重計を持ち出すかのように。

 しかし、丹念に読み解いていくと、もっとも重要なキーワードが浮かび上がってくる。

 それは無心。

 禅といえば、無。心が無、である。ところがこの無とはやっかいな概念で、通常われわれが意識している「有る」に対しての「無い」ではなさそうだ。そもそも禅僧でもなんでもない私が無をきちんと理解できるはずはなく、また理解していたとしても言葉で表すことはできないだろうが、「無いという状態が有る」と言っていいのかもしれないし、「たった今」以外は「無い」と言っていいかもしれない。過去に起こったこと、これから起こるであろうことは余分なこと、まして「こうしたい、ああしたい」という作為など論外。真に目の前のものごとに我を忘れ没頭している様子、それこそが無の境地であろう。

 本書でも阿波師範が言う。

「引き絞った弦を、いわば幼児がさし出された指を握るように抑えねばなりません。幼児は考えない(それと同じように」」

 そう、答えは幼児の好奇心にある。見るもの聞くもの触るもの、すべてが新鮮で驚きの対照。幼児の好奇心にかかっては、この世はワンダーランドだ。文字通り、「たった今」以外はすべてきれいさっぱり何もない。

 大人がそういう心境を取り戻すことはきわめて難しい。だからこその禅なのだ。思想としての禅は、そんな大人に子供心を取り戻させるための思考装置と言ってもいいかもしれない。

 

 本書の主旨は、主人公が阿波師範のもとで、いかに弓道の奥義を習得するか、にある。ヘリゲルは西洋の人だから、論理的に習得しようと試みるが、ことごとく失敗する。明らかに身体的に劣っている老師にかなわない。

 阿波師範は言う。筋肉を使わずして弓を引け、矢を放つには放とうという意志をまったく持たないで放て、的を見ないで的を射ろ、と。そして呼吸法による精神の集中がいかに重要かを諭す。

 つまり、この書は西洋的価値観と日本的修練との激しい葛藤であり、唯物と唯思の火花散る相克を描いたものでもある。

 こんなくだりがある。まだヘリゲルが学び始めて間もないころ。彼は力んでいるためにうまく弓を引くことできないのだと悟る。そして、力を抜こうと考える。しかし、阿波師範は涼しい表情で(たぶん)、こう指摘する。

「まさしくそのことがいけないのです。あなたがそのために骨折ったり、それについて考えたりすることが。一切を忘れてもっぱら呼吸に集中しなさい。ちょうど他には何一つなすべきことがないかのように」

 とはいえ、何も考えないようにしようとすればするほど、さまざまな想念が浮き上がってくる。しかし、ヘリゲルは師の言わんとすることを理解し、徐々に弓が引けるようになる。すると、今度は的に当てたくなる。

 再び、阿波師範は指摘する。

「正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ! あなたがあくまで執拗に、確実に的にあてるために矢の放れを取得しようとすればするほど、ますます放れに成功せず、いよいよ中りも遠のくでしょう。あなたがあまりにも意志的な意志を持っていることが、あなたの邪魔になっているのです」

 そのうえで阿波師範は、作為や意図をすべて捨てなさいと諭す。失意とともに師の忠言を聞くヘリゲルだが、約3年ののち、的に当てることへの執着を捨て去ることができたとき、願いは叶う。ヘイゲルの放った矢が的に命中するのである。

 ヘリゲルは本書にこう記す。

 ――彼ら(日本の弓道の大家)にとっては、射手が自己自身を狙い、かつまた狙わないということ、彼はその際おそらく自己自身を射あて、かつまた射あてないということ、かくて狙うものと狙われるもの、射あてるものと射あてられるものがひとつになるということに在る。

 

 この境地は『老人と海』の最後の場面、サメに襲われるマカジキを見ながら老人が覚える感興を彷彿とさせる。

『パリ左岸のピアノ工房』(T・E・カーハート)という印象深い作品のなかで、あるピアノ講師がじつにユニークな練習法で指導する場面がある。そのピアノ講師は、『弓と禅』を愛読していることを披瀝する。使い方さえ間違わなければ、本書はあらゆるものに有効であろう。

 不肖私も、経営の考え方に活用している。おかげで、結果に左右されず、すこぶる精神が安定している。

 え? それは危機意識がないことだって? 

 たしかに、そうとも言えるな。うん。

 

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