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紺碧の将

静かで豊かな、喪失の物語

file.099『やさしい訴え』小川洋子 文春文庫

 

 小川洋子と聞けば、即座に『博士の愛した数式』を思い浮かべる。ケチのつけようがないほどよくできた小説である。おそらく小川氏は数学や音楽など、法則性のあるものを文章で表現することが好きなのだろう。『博士の愛した数式』の7年前に発表した『やさしい訴え』や『MONKEY』という雑誌に掲載された「少年少女」という、音楽をテーマにした短編も忘れがたい。

 ここではあえて『やさしい訴え』を取り上げたい。

『やさしい訴え』とはジャン=フィリップ・ラモーという、18世紀に生きたフランスの作曲家の作品の名だが、チェンバロのために書かれたこの曲が物語全編を通じて静かに流れている。文字の背景に、まだ聴いたことのない曲を響かせるなんて、なかなかできる芸当ではない。

 この作品の主題は、喪失であろう。人は自分の〝持ち時間〟を費消しながらなにかを得、なにかを失っていく。両者のバランスをとりながら幕を閉じることができれば、いい人生だったと言えるのではないか。

 この物語の主人公・瑠璃子は、夫と別居するため、山のなかの別荘に移り住む(東北あたりか?)。そこで静かな日々をおくるが、やがて近くに住む新田さんという男と彼のアシスタントを務める薫さんに出会ってから淀んだ日常が動き始める。

 新田さんは元ピアニスト。かなりいい線までいっていたのだが、自分の演奏を聞いている人が一人でもいるとピアノが弾けなくなってしまうという。あとがきで青柳いずみこ氏は、その症状は完璧主義者が陥りやすく、かのドビュッシーもそうだったと書いている。ドビュッシーは作曲家としての才能があったからいいものの、新田さんはそういうわけにもいかず、チェンバロを製作する仕事を生業にした。

 なぜチェンバロかはわからないが、いかにも完璧主義者が挑みそうなテーマだ。なぜなら、チェンバロはきわめて繊細な楽器で、ちょっとした気温や湿度にも影響を受ける。繊細さは演奏家にとっても同様で、音の強弱をつけにくい、いわゆる〝発散できない〟楽器である。

 完璧主義者の新田さんは、自分がつくったチェンバロの不具合はいっさい許すことができず、叩き壊してしまうという潔癖症ぶりだ。こういう人が子供をもつとえらいことになるかもしれない。

 瑠璃子はそんな新田さんに惹かれていく。そして、彼が全幅の信頼をおく薫さんに嫉妬を抱く。なにしろ、新田さんは薫さんの前でだけピアノを弾くことができるのだ。それを知り、瑠璃子は新田さんと薫さんの間に入り込む隙がないことを悟る。自分と新田さんは体の関係をもっているが、それだけではまったく太刀打ちできない、と。

 冒頭にも書いたように、この作品は喪失の物語だ。人間誰しも、なにかを喪う。しかし、喪うことが悪いわけではない。どういう喪い方か、それが重要だ。事実、瑠璃子は多くを喪いつつ、心は少しずつ浄化されていく。

 物語のラスト、新田さんは満足のいくチェンバロを完成させ、祝いのパーティーに瑠璃子を招く。そこには薫さんが腕をふるった料理がたくさん並べられている。そして、薫さんが3曲弾き終わるごとに2種類の料理を食べることにする。バッハ、クープラン、デュフリ、パーセルと続くなか、生ハムとメロン、ローストビーフと海老のカクテル、ワインとチョコというふうに。そして、瑠璃子は幕切れにふさわしい曲をリクエストする。もちろん、ラモーの『やさしい訴え』だ。

 主人公の瑠璃子にとって、あまりいいことはなかったのに、なんて幸せなひとときなのだろうと思わせる。つまり、これが人生の妙味なのではないかと小川洋子は静かに語りかけているのだ。

 この作品を読んでいる途中、『やさしい訴え』を聴いてみたいと思っていたが、こらえた。読みながら想像したメロディーのイメージを崩したくなかったからだ。

 

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