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紺碧の将

この世で最も愛する音楽

file.051『ゴルトベルク変奏曲』J.S.バッハ

 本コラムは25回を1クールとし、それぞれ初回にバッハの作品を取り上げるというのが唯一のルールだ。

 3クール目は『ゴルトベルク変奏曲』(ゴールドベルク変奏曲とも表記される)で始めたい。

 本コラムの第1回目で、私はあらゆる音楽のなかで最も好きな作品はバッハの『平均律クラヴィーア曲集』か『ゴルトベルク変奏曲』だと書いたが、やはり冷静に考えると、この作品の方が好きだ。グレン・グールドが録音した2枚(1956年と1981年版)をはじめ、名だたるピアニストが歴史的な名盤を遺している。のみならずギター、サクソフォン、弦楽合奏など、ピアノ以外の楽器による演奏も数多くある。生演奏にも何度も触れた。グールドが、死の前年である81年の4~5月にニューヨークのコロンビア30番街スタジオで録音したときの映像(DVD)も、繰り返し見ている。

 演奏によっては1時間以上に及ぶこの作品、もともとは不眠症に悩むカイザーリンク伯爵のために書かれたという有名な逸話がある。眠れなくなった伯爵が、バッハの教え子であるヨハン・ゴルトベルクに「さあ、またあれを弾いてくれるかい」と頼んでいたことから「ゴルトベルク変奏曲」の俗称で知られているが、ほんとうの名は「アリアとさまざまな変奏」。

 それにしても、バッハは本気で眠気を誘う曲を作ろうとしたのだろうか。もし、そうであれば、そのもくろみはまったく不首尾に終わったというべきだ。なぜなら、この曲は冒頭のアリアから聴く人の興味をかきたてる要素が満載だからだ。

 本作は変奏曲の極致といっていい。アリア(主題)が終わった後、30種類の変奏が続き、最後にアリアで閉めるという構成だが、ひとつの無駄もなく、一瞬とて飽きさせない。これほど緻密で、アイデアに満ちた変奏曲は、現代に至るまで他に類を見ないだろう。

 バッハの手にかかると、変奏がすさまじく展開する。変奏といっても、バッハのそれは、よくよく耳を澄まして聴かないとわからない。主題は低音部にほんの少し残る程度で、ほかは自由闊達に展開するのだ。

 この曲はまた、カノンという形式を用いた最高峰でもある。カノンとは、フーガのなかでもストイックなスタイルで、まったく同じメロディーが遅れて追いかける形式。しかも、バッハ先生、第6、第9、第12、第15、第18、第21、第24、第27変奏曲でカノンを用いている。これらの数字を並べてみればすぐに気づくはずだが、2つおき、つまり3の倍数なのだ。さらに驚くべきは、それぞれのカノンは、番号が上がるにつれ、追う方のメロディーが1度ずつ上がっていくという仕掛け(カノン変奏の音程の開きは第27変奏で9度に達する)。

 バッハは音楽という宇宙空間の隅々まで把握していたようで、やりたい放題、作りたい放題である。それでいて、わずかな破綻もない。ないからこそ、時々散りばめるユーモアが効いてくる。ふつうは大まじめなのだが、ときどき絶妙なジョークを言って周囲を笑わせる大人物を思わせる。とても300年近く前に作られたとは思えない。

 では、だれの演奏を聴くべきか。どうしても避けて通れないのが、グレン・グールド(1932~82年)だろう。彼はレコード会社に反対されながら、デビュー盤にこの曲を選んだ。1956年にリリースされ、世界的な大ヒットとなると同時に、物議を醸した。なにしろ、それまでのバッハの演奏法を根底から覆すような解釈をしたからだ。

 バッハの楽譜には、演奏者に対する指示書きがほとんどないが、その分、演奏者が自由に解釈できるかといえば、そうではなく、ある一定の〝節度〟を求められていた。当時のチェンバロという楽器が、ピアノのように強弱をつけにくく、表現の幅が制限されていたということもあるが、宗教的なバックグランドも含め、演奏の型がある程度決まっていた。

 しかし、若きグールドは、それまでの定説に真っ向から挑戦状を叩きつけた。躍動感に満ち溢れ、才気がみなぎっている。テンポは気が狂っているとしか思えないほど速く(38分36秒!!!!)、タッチも荒々しい。疾風怒濤のごとく弾きまくり、気がつくとアリアが幕を閉じているという具合だった。その後、それまでの常識を打破するような解釈は、モーツァルトやベートーヴェンの作品でもたびたび披露することになるが、このデビュー盤こそ、その先駆けであった。

 グールドが、生涯で唯一、同じ曲を再録した作品がこの『ゴルトベルク変奏曲』だが、亡くなる1年前、49歳のときに録音したものが、現在、多くの音楽家の間で「最高峰」と評価される。1982年にリリースされた盤である。私もまったく同感で、ゆうたりしたこの演奏(51分23秒)に、聴けば聴くほど、引き込まれる。全体の構成はどっしりと安定感があり、四季の移り変わりのように自然体で、細部には音楽の神が宿っているかのごとくだ。

 ところで、2度目に録音された『ゴルトベルク変奏曲』のジャケットを見てほしい。グールドは知る人ぞ知る夏目漱石のファンだった。特に『草枕』がお好みで、4種類の翻訳書を持っていたそうだ。

 夏目漱石といえば、右手を額にあてた肖像写真が有名だが(右)、グールドのジャケット写真と似ていると思うのは、ただの気のせいだろうか。

 もう1枚、私が偏愛する演奏は、ロザリン・トゥーレックによるもの。彼女の『ゴルトベルク変奏曲』にはチェンバロ演奏を含めて6種類の録音があり、私は最後の録音(83歳の時)が好きだ。CDが2枚組ということでもわかるが、テンポは大河の流れのようにゆったりしている。演奏時間は91分10秒。グールドのデビュー盤と比べると、2.4倍の長さ。細部まで意識が行き届き、美しさに満ちて幽玄でさえある。それでいて、間延びしたところはなく、ほどよい緊張も漂っている。じつはグールドがこの演奏を聴いてインスパイアを受けたというのは、あまり知られていないようだ。聴けば、なるほどと思うにちがいない。グールドほど極端ではないが、スタッカートの効果が絶妙だ。

 もう1枚、変わり種から選ぶとすれば、カート・ラダーマーというギタリストによる演奏。ラダーマーはギター用に編曲し、左右の手に充当させるため2台のギターを自前で作り、それぞれ録音してミキシングした。完成まで費やした時間は、10年を超えていたという。まさに執念が生んだ1枚だが、それだけの価値はある。繰り返し、何度聴いても、飽きることがない。

 ゴルトベルク変奏曲は、人間が作り出した最高峰の音楽。そう言ってはばからない。

 

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