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紺碧の将

日本人の大転換期

2011.03.28

 戦後史上最悪の国難は、今も終わりが見えない。数万人もの死者が出、そのうちの多くがまだ発見されていないという事態がきわめて異常なら、その異常さに意識が向かないほど恐怖に駆られる原発事故もきわめて異常だ。あの11日の14時46分を境にしてこんな状況になるなど、いったい誰が予測しえただろう。

 この国難がどのような形で決着するのか見当はつかないが、今回の災害は私たち日本人にじつに多くのことを教えてくれている。

 まず、自然というものはとうてい人智の及ばない圧倒的な力をもっているという厳粛な事実を思い知らされた。今回の被災地は今までにもたびたび津波に襲われていたので、それに対する備えはなされていたはずである。しかも「科学の粋を結集して」。しかし、そのようなものを嘲笑うごとく、巨大は津波の前ではまるで無力だった。

 クリーンエネルギーというとらえ方で原発を容認してきた私たちの常識にも大きな疑問符が突きつけられることになった。

 等々、今回の災害で露わになった負の面を列記すればきりがない。

 一方、こういう大惨事に直面して明らかになった正の面もある。例えば、日本人の秩序正しさ、互いを思いやる心がきちんと残っていたということがわかったこと。3月11日前のさまざまなメディアを見ると、いかに日本人は他人を思いやる公共心を失ってしまったか、という論調に溢れていた。なにをかくそう、私もそういうことを書いた当人である。

 しかし、今回、多くの日本人を見る限り、祖先から受け継がれてきた精神的な美徳はちゃんと遺伝子に残っていたんだと痛感させられた。とても皮肉なことに、今までさんざん足のひっぱりあいをしてきた日本人は、今回の惨事をきっかけにして、また心をひとつにすることができたのである。もちろん、その代償はあまりにも大きい。そして、今なお、惨事は進行中である。

 

 つねづね私は、日本は過剰な社会だと思ってきた。すべてにおいて過剰なことをするためにエネルギーを湯水のごとく使い、毎日気が遠くなるほどの食料を廃棄してきた。ヨーロッパの国々へ行けばわかるが、夜はそれなりに暗いし、過剰なサービスはひとつもない。日曜日は営業していない店が多いし、そもそもコンビニや自動販売機などほとんど見当たらない。一般家庭でも食事の内容はかなり質素である。

 それでも、彼らは自分たちのライフスタイルの何たるかがわかっている。過剰な社会に憧れてなどいない。タクシーの自動ドアや建物の自動ドアさえ嫌われている。「自分ができることをあえて機械にやってもらうなど、言語道断」という心意気だろう。

 これから新しい日本を作るうえにおいて、必要なエネルギーの絶対量は大幅に下げるべきである。と同時に、何が幸せな暮らしか、を国民それぞれが考えるべきである。

 

 大丈夫、日本人ならできる。世界の人たちのお手本になるような社会を作ることができると信じている。神話の時代から途切れることなく続いてきた世界唯一の皇統を誇りにし、今までそれぞれの役割を果たしてくれた無数の日本人に感謝の気持ちを抱き、もう一度この美しい国を再興しようではないか。

(110328 第239回 写真は、日本人なら誰もがわかる山)

 

 

 

 

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