多樂スパイス

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紺碧の将

孤独と孤立

2020.07.19

 友人から、孤独についてどう思うかと訊かれた。とりわけ髙久さんが言う「多樂」とはどういう関係があるのか、と。

 孤独については一家言ある。

 多くの選択肢のなか、自ら選んだ一時的な境遇としての孤独であるのなら、魅惑的な時間である。いっぽう、否応なく孤独にならざるをえなくなったとしたら、それは寂しい境遇である。孤独というより、孤立という言葉が適している。

 私は孤独の時間を愛する。なんの気兼ねもなく、好きなことができるのだ。もちろん、日々自分の思い通りに生きているのだが、それでもなお、自分だけの時間は魅力的だ。

 とはいえ、1年中そうだとしたら、かなり悲惨だろう。否、1年と言わず、1週間でもつらい。人はだれかと親密でいる時間がなかったら、健やかな精神状態を保つことはできないはず。親密でいられる時間があるという〝担保〟があるからこそ、孤独を楽しむことができるともいえる。

 そういう意味で、私は人と親密な時間を過ごすのか、あるいは一人だけの時間を過ごすのか、どちらを選ぶにせよ自由である(と思っている)。つまり、会いたい人と会って愉しい時間を過ごすのも、ひとりで過ごすのも、ほとんどは自分次第ということ。

 では、多樂との関係性は?

 もう一度、多樂(造語だが)の定義を確認してみよう。

「自分が好きなことを見つけて無我夢中で取り組み、ひとつずつ目標をクリアする。そうやって愉しみながら、自分という人間をぶ厚くしていく……。今がベストで、未来には未知の楽しみがある。これが、多樂の本質である」

 当然のこととして、自分が好きなことに熱中するにも、得意なことを伸ばすにも、孤独の時間を経ずしては不可能だ。早い話、本を読むときは孤独だ。

 しかし、読書によって培ったものを活かす場面は、たいてい人が絡んでくる。このブログのように、原稿として形になったものであれば、読者との関わりが生じる。うまくいけば、交歓が生まれる。これは孤独の時間が、他者との関係性によって昇華したということだ。

 いっぽう、だれからも相手にされず、孤独が常態化してしまった人はどうだろう。それは先述したように、孤立である。人として生まれてきて、最悪の境遇と言っていいだろう。そうなってしまう要因はいくつもあるだろうが、突き詰めれば、自分のことしか考えていないからだ。国家レベルで考えるとわかりやすい。いまの中国がまさにそう。孤立への道をひた走っている。

 そうならないよう、先人たちは戒めの警句や物語を数多く遺してくれた。宗教や思想という形に体系化してあるものもある。

 それらはたいてい普遍的な内容を備えている。熟読玩味し、自家薬籠中の物にすることができれば、まちがっても孤立するようなことはない。

 娘が幼かった頃、さんざん「遊べ、学べ、本を読め」と言い聞かせたが、つまりは大人になって孤立するような人間にはならないでほしいという思いがあったからだ。

 孤独……、いい響きではないか。

 孤立……、ただただ物悲しい。

 

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(200719 第1008回)

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