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紺碧の将

人の手でつくった自然の森

2020.01.03

新春の慶びとともに、本欄ご愛読の皆様のご多幸を心よりお祈りします。

 

 年が明けてからずっといい天気が続いている。まるで天が新しい春を寿いでくれるかのように。

 年末から年明けにかけて明治神宮や神宮外苑を歩いている。青空の下、好きな音楽を聴きながら歩くだけで心が晴れ晴れとしてくる。

 明治神宮の社に入るたび、思う。なにもなかった地に広大な森をつくろうと計画し、実際につくってしまった当時の人たちの思いを継承しなければいけない、と。

 1912(明治45)年7月30日、明治天皇が崩御された後、明治天皇を祀る神社を創建しようという機運が生まれる。

 候補地は富士山の裾野など約40ヶ所もあったが、渋沢栄一らの尽力により代々木御料地が選ばれた。当時、この地はわずかにアカマツ林があっただけで、荒涼とした湿地が広がっていた。それを鎮守の森にするため政府は、日比谷公園の設計などで有名な林学の専門家・本多静六や造園家の本郷高徳、日本の造園学の祖とされる上原敬二など錚々たるメンバーを集めた。彼らの基本構想は、ただ植樹をするのではなく、自然の循環が連綿と続く森にすることである。

 当時の首相・大隈重信は、神社なのだからスギの森にするとこだわったが、この地は関東ローム層の洪積台地にあって保水力に乏しく、たくさんの水を必要とするスギは十分に育たない可能性があると本多らは見た。そこで彼らが主木として選んだのは、カシ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹だった。もともとこの地に生えていたのが常緑広葉樹であり、それらを中心にさまざまな広葉樹木の混合林を再現することができれば、人手を加えなくても自然に循環する森をつくることができると考えた。そして、東京のスギと日光のスギを比較調査し、日光に比べていかに東京のスギの生育が悪いかを理論的に説明し、大隈首相を納得させた。もし、あのときスギの森にしようと決めていたら、現在はやせ細ったスギが林立する貧相な森になっていた可能性が高い。

 このあたりの経緯については、『明治神宮「伝統」を創った大プロジェクト』(今泉宣子 新潮選書)に詳しい。本多らがつくった森林計画書(右上写真)も掲載されている。

 この地に植える樹木は全国から寄進されることになるが、本多らも予想しなかったことがあった。樹木のなかに生息する生物が代々木に〝移住〟して繁殖するのである。数年前、明治神宮の森の生態調査の模様をテレビで放映していたが、じつに多種多様の固有種が存在することがわかった。つまりこの森は、樹木だけではなく植物や昆虫を含むさまざまな生き物が全国からやってきて、自然の森を形成しているわけだ。そう思うと、古来から続いてきた神社とは性格が異なることがわかる。人工の森ゆえのユニークな側面もあるということだ。

 それもこれも、計画書に沿って懸命にこの森を育んできた人たちの労苦があったればこそ。先人たちの志には感謝するばかりである。

 

 昨年10月、南参道近くに「明治神宮ミュージアム」が完成した(写真右上)。森と調和する設計は、国立競技場など八面六臂の活躍を続ける隈研吾氏によるもの。明治神宮創建のなりたちや明治天皇・昭憲皇太后のご遺愛品などが展示されている。大正時代、ここに森をつくろうと尽力した人たちが見たら、感涙ものだろう。

 必見の場である。

 

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