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紺碧の将

無邪気と分別

2016.07.19

三輪車 今年になってから、幼稚園や保育園を訪れる機会が増えた。そこで子供たちの姿を見ていると、無邪気でいいなあと思う。自分が無邪気だった頃のことはすっかり忘れたが、ひとり娘が無邪気だった頃のことは鮮明に覚えている。起きてから眠りにつくまで、すべてが楽しそうで、この世に憂うことなどなにもないかのようなふるまいだった。その当時の曇りなき笑顔と分別がついてからの笑顔は明らかにべつのものだ。

 おそらく、はじめはすべての人間が無邪気だったのだろう。私のようにへそ曲がりの人間でも。
 しかし、知恵がついてくると、人間は〝分別〟という衣をまとうことになる。
 はたしてそれがいいのか悪いのかわからない。いつまでも無邪気だとしたら、いろいろ問題もあるだろう。黒澤明の描いた『白痴』はまさにそんなテーマの映画だった。

 

──無邪気駅と分別駅の間に思春期トンネルがある。
 そんなふうにも思う。
 日本画家安田靫彦と小倉遊亀のやりとりで、興味深いものがある。
 ある日、遊亀は師からこう言われた。
「一枚の葉っぱを手に入れなさい。そうすれば、宇宙全体が手に入ります」
 そのひとことで遊亀は開眼する。葉脈のひとつひとつを丹念に描き、葉っぱの全体像をつかんだ後、描かなくてもいい線を省く。つまり、一度、全体像を手に入れないと、捨てるべきものがわからないということを会得したのだ。絵に限らず、あらゆることにあてはまる真理だろう。
 そして、遊亀はこう言った。
「人も植物も動物もなにもかも同じだとわかったんです。だから、こちら側の態度は同じでいいんだって」
 そういう境地にたどり着いたからか、遊亀の描く静物画は歳とともに子供の絵のようになっていった。なんの作為ももたない、純粋無垢な絵に。
 人は無邪気で生まれ、少しずつ「常識」や「見栄」や「虚栄心」という名の衣をまとうようになる。ほんとうは無駄なもの、いらないものだとわかっているのに、どんどん重ね着していく。
 いったんまとってしまった衣を脱ぐためには、いくつもの方法がある。それを知っている人は魅力的だ。小倉遊亀もその一人だ。

 

 無邪気だった頃、どんなことに夢中だった?
(160719 第651回)

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