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身勝手な人間が人を感動させるというパラドクス

file.089『月と六ペンス』サマセット・モーム 金原瑞人訳 新潮文庫

 

 20年ほど前、なにを思ったのか、『月と六ペンス』の全文を書き写してみたくなった。とくだんの理由はない。とくに文章がいいと思ったわけではないし、それによってなにかを学ぼうと思ったわけでもない。モームのこの代表作は中学時代に読んだまま、記憶のなかで埃をかぶった状態で放置されていたのだが、なぜか書き写したくなったのだ。

 若いときは、意味もないことをしたくなる衝動があるものだ。意味のないことをしなくなるということは、成熟することでもあるし、若さを失っていくことでもあるのだろう。

 そういえば、この作品の主人公も意味のない行動をしている。ある衝動に突き動かされて家を出て南の島に行き、画家になるのだから。よく知られているように、モチーフはポール・ゴーギャンと考えていいだろう。フランス生まれのゴーギャンは、突如タヒチに渡り、終生現地の人たちを描いた。

 それにしても、モームが描いたこの男は、徹頭徹尾、身勝手だ。それなのに、この男は芸術によって後世の人たちを感動させるのだから人間というのはわからない。

「しょせん、人間はそういう生き物じゃないか」と天国で高笑いするモームの声が聞こえてきそうである。

 

 40代なかばまで証券会社で真面目に働いていたストリックランドは、ある日突然家族を残して消えてしまう。後日妻に届いた手紙によれば、自分はフランスへ渡り、パリに住んでいるのだが、もう家族のもとには戻らないという。妻のエイミは、女性と逃避行したのだとばかり思いこみ、語り手で「僕」にパリへ行って様子を見てきてほしいと依頼する。しかし、「僕」がパリでストリックランドに会うと、彼は一人で貧しい生活を送っていた。話を聞くと、家を出たのは絵を描くためだという。エイミは「私」からそのことを聞くと悲しんだが、やがてタイピストの仕事を始めて自立していく。

 まじめな人間だったストリックランドはある日を境に、身勝手な男に変わってしまった。自分の理解者である男の恩を仇で返すような仕業を平気で行い、自分を愛してくれる女を死に追いやっても平然としている。

 その後、彼はタヒチへ渡り、伴侶を見つけ、数々の作品を残し、凄惨な死をとげる。

 ロンドンに帰った私は彼がどのような生涯を過ごしたのかを伝えようと、エイミに再会する。タヒチでのストリックランドのことを話し終えた私の頭には、彼がアタとの間に儲けた息子が、大海原で船を操っている姿が浮かんでいた。

 

 ストーリーを追えば、いくつもの「?」が去来する。長年まじめに働いてきた男が、いったいどういう理由で絵画に殉ずる気になったのか、まったく描かれていないからだ。あまりにも唐突で、もっとそのあたりの動機を描いてくださいよと言いたくもなるが、モームはそんな声を聞く耳は持たない。

 ゴーギャンの代表作に『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』という作品がある。本書のテーマは、まさにその一言に尽きる。おそらくストリックランドもそう思いながら人生の終末を迎えていたのではないか。

 1959年版の新潮文庫の訳者・中野好夫の解説によると、タイトルの「月」は夢を、「六ペンス」は現実を意味するという。しかし、2014年版の新潮文庫の訳者・金原瑞人の解説では、「月」は夜空に輝く美、あるいは狂気を、「六ペンス」は世俗の安っぽさを象徴しているのではないかと述べている。いずれにしても、人間のもつ、理屈に合わない不可解さを象徴する言葉として、モームはタイトルに冠したのであろう。

 ところで、30代はじめに訪れたタヒチの印象は、いまだ鮮烈に脳裏に刻まれている。日本からの直行便は週に1便しかなく、ハワイのように俗化していない(今はわからないが)。英語もほとんど通じない。通じるのはフランス語と現地語だけ。海は透き通るようで、晴れていると夜空は星でいっぱいになった。タヒチで食べたフランスパンにまさるものはいまだ味わったことがない(ただし、マヒマヒなど現地の魚は味が雑駁で美味とはいえなかったが)。

 島にゴーギャン博物館のようなものがあったが、本物の絵が1枚もないことに驚いた。みんな本国へ行ってしまったのだ。それでも、現地の人たちは意に介していないだろう。なぜなら、人が描いた絵よりもはるかに美しい自然の造作物を毎日見られるのだから。

 

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