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紺碧の将

虫に同化し、神様へのレポートを描き続けたプチ・ファーブル

file.075『私は虫である』熊田千佳慕 求龍堂

 

 98歳の生涯を閉じるまで昆虫や植物を描き続けた〝プチ・ファーブル〟こと熊田千佳慕の言葉を集めた本。世に名言集はあまたあれど、これほど独自の生き方に裏打ちされた言葉を集めた本はめずらしい。

 あるとき、千佳慕さんは会社勤めをやめ、絵を描くことを生涯の業と決める。絵を描くことはすなわち神様に与えられた道を歩くことであり、それは「生きる」ことであった。画家であれば作品を売ることが生業のはずだが、彼は1枚も売らないと決める。神様に与えられた道を歩んだ末に生まれた絵を手放すことなできないと。サラリーが入らず、描いた作品も売らないのだから、赤貧洗うが如しの極貧になるのは必定だった。

 彼は自らの生活をビンボーズと評した。ビンボーがたくさんあるからビンボーズ。こう書くと、野球のチームみたいで楽しくなるという。

 本書には「神様」という言葉が何度も出てくることでもわかるが、千佳慕さんは深い信仰心をもっていた。ただし、通常の宗教的な信仰心とは異なる。もっともっと大きな存在、自然の摂理のようなものを信じ、心身を預け、ひたすらその摂理に従って生きた。本来、信仰心とはそういうものである。宗門の規模を誇ったり、信者を増やすために布教するなど、本来の宗教にあるまじき行為だと私は思っている。

 千佳慕さんのものごとの見方が鮮やかだ。だれもが死の直前に獲得するであろう「末期の眼」を終生もっていた。生活のなかの些細なひとつひとつに温かい眼差しを向け、心底から幸福を味わっていた。彼はマインドフルネスの達人でもあったのだろう。

 読んでいて、「自分と同じ」と思うところがたくさんあった。私は原則、オン・オフがない。どの時間を輪切りにしても、オンのようであってオフのようである。だから、あえて休日を設けるということはしない。だから、旅行や出張の日を除き、1年中ほぼ同じような毎日を過ごしている。千佳慕さんも「ゆとりとは作るべきものではなく、自らできるもの」と言っている。つまり、1日のなかで休みたくなったときに休むということ。自由な身だからこそできることでもあるのだが、自由だからこそできないということもある。

「ともだち」になれるかどうかが大切だとも説く。この場合の「ともだち」は、人間ばかりとは限らない。あらゆるものが対象である。役に立つかどうか、価値があるかどうかではなく、そのものと仲良くなれるか、それこそが問われるのだと。私も、とりわけ芸術作品との相性に関しては「仲良くなれるか」を最も重要な基準にしている。

 こんな言葉もある。

 ――お陰様で、もう死ぬまで老後がなくて(笑)。ほんとうにこれだけは幸せだと思いますよ。

 

 人生100年時代の最高のお手本だ。

 

 ――害虫と言って人は駆除しようとするけれど、神様がそういうふうにその虫を作られたわけでしょ。生まれた時からお前の食べるものは、なすだきゅうりだと教えられて、だからそればかり食べている。虫にしたらそれがどうして悪いのかわからないですよ。

 

 千佳慕さんはあらゆる生き物の立場になって考えていた。

 

 ――望みはない。望みをもつと打算につながるから。

 

 希望をもつことはいいことだとされる。しかし、それが過ぎれば本末転倒になるということを知っていた。だから、ひとつひとつのことに集中して一心不乱に取り組む。まさに一行三昧。それこそ熊田千佳慕の真骨頂だった。

 熊田千佳慕さんは2009年8月、銀座松屋での展覧会の2日目に急逝したが、その2年前、当時弊社で発行していた『fooga』の取材のために横浜の自宅へ伺ったことがある。横浜住まいなのにタイガース・ファンだと言い、理由はユニフォームがかっこいいからと言っていたのが印象的だった。

 

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