死ぬまでに読むべき300冊の本
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紺碧の将

不幸な他者を楽しむという心の正体

file.044『山椒魚』井伏鱒二 新潮文庫

 

 山椒魚は悲しんだ。

 そう始まるこの短篇を多くの日本人が学生時代に読んだ(あるいは読まされた)。筆者もその一人だが、しかし内容は漠然としか記憶に残っていない。なんといっても短かすぎる。文庫本で10ページ分の文章量しかない。

 主人公の山椒魚は天然記念物級のマヌケだ。棲み家である岩屋から出ようとしたら、頭が出口につかえて出られなくなってしまった。「何たる失態であることか!」とおのれの不甲斐なさを嘆くが、遅きに失した。ダレた毎日を送っていたがために気がついたらデブになってしまい、頭が出入り口に「コロップの栓」のようにつかえるようになってしまったのだ。

 岩屋は窮屈で、自由自在に動き回ることもできない。せいぜい体を前後左右に動かすだけである。やがて背中やしっぽや腹に苔が生えてきたと感じた。そんな山椒魚にできることは、苦し紛れの虚勢を張ることくらいだ。小魚たちを眺めては「なんという不自由千万な奴らであろう!」と嘲笑するが、もちろんそれらの言葉はすべて自分に返ってくる。

 山椒魚は何度も外へ出ようと試みるが失敗に終わり、あげく神に窮状を訴える。「寒いほど独りぽっちだ」と言ってはすすり泣く。

 ある日、その岩屋に一匹の蛙がまぎれこんできた。それを見て、山椒魚は「一生涯ここに閉じ込めてやる!」と呪いの言葉を吐く。はからずも幽閉されたしまった自分と同じような思いをさせてやるのだと言って出口をふさいでしまう。蛙は山椒魚が届かない岩壁の凹みに入り、降りようとしない。

 そのまま2年が過ぎた。

 ふと、蛙が深い歎息をもらした。それは微かな音だったが、山椒魚は聞き逃さなかった。それをきっかけに山椒魚はそこから降りてきてもいいと言う。しかし、蛙の命は尽きかけていた。「もう駄目なようだ」と力なく答える。そして、印象的な最後のセリフにつながる。

「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」

 

 大筋は以上のとおりだが、井伏鱒二はどのような意図をもってこの作品を描いたのか(あるいは、意図などなかったのか)。

 よく言われるのは、山椒魚は知識人のメタファーだということ。自らはなにもせず、安全圏から世の中を見て〝クサす〟だけ。そんな輩を滑稽に描いたというのは説得力がある。なぜならば、そういうタイプの人間はいつの時代にもいるからだ。しかも、その多くは学校エリートに多い。学校エリートの対極を生きる井伏鱒二が、彼らを揶揄したくなるのは当然ともいえる。

 が、私の関心はそれではない。たまたま岩屋にまぎれこんできた蛙に対して「一生涯ここに閉じ込めてやる!」と言い放ち、死ぬ間際まで閉じ込めてしまう負の感情である。

 蛙を閉じ込めたところで自分が岩屋から出られるわけではない。であれば、退屈な生活を少しでも楽しい生活にするため、蛙と仲良くしようとするのが合理的な発想だ。

 しかし、山椒魚はそうしないばかりか、理不尽な仕打ちに徹する。自由ではない自分が自由な蛙と仲良くすることはどうしてもできない相談なのだ。仲良くするくらいなら、相手が苦しんでいるのを見るほうがいい。

 ここまで書けばわかるだろう。週刊誌やワイドショーや地域の井戸端会議やサラリーマン御用達の一杯飲み屋は、そういうニーズに応えるため、機能している面がある。さらにいえば、「桜を見る会」批判もおしなべてその構図である(そのために国会で重要な審議が滞っているのは膨大なムダ)。なんとも人間の妬み・ひがみはやっかいな感情である。

 昭和60年刊の自選全集で井伏鱒二は最後のくだりをすべて削除した。理由はわからない。最後のやりとりがなければ、ただのイジワルで終わってしまうような気がする。かと言って、あればあったで教条的・作為的にすぎる。井伏鱒二は自身の代表的な短篇の大事な肉をざっくりと切り落とし、血汐あふれる断面から説教臭さを排除したかったのではないか。特に最後のシーンがなくても、この小説の本質はいささかも損なわれないことを知っているから。

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