音楽を食べて大きくなった
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紺碧の将

シューマン的美の世界の極北

file.024『ピアノ四重奏曲』シューマン

 拙著『葉っぱは見えるが、根っこは見えない』で、自分の葬儀の際に流してほしい曲を10曲ほど挙げたが、その筆頭がこの曲だった(だからなに? と言われそうだが)。

 私が好きな室内楽は数多くあるが、この作品は〝音の詩人〟シューマンの真骨頂ともいえる作品で、4楽章それぞれが際立った個性をもち、トータル性もある。演奏時間は30分弱。何を聴くか迷ったときは、すかさずこれを選ぶことが多い。

 それほどに愛聴しているが、私が持っているのは1968年録音の、グレン・グールドとジュリアード弦楽四重奏団が共演した盤のみ。この作品の完成度が高いため、あえて他の演奏を聴いてみたいと思わない。いずれ機会があれば聴いてみたいとは思うが、積極的に他の演奏を漁りたいと思えないのだ。そう思わせたら、演奏者は完全勝利をもぎとったと言えるのだろう。

 グールドは、ロマン派の室内楽を演奏しない人だった。曲に感情移入して思い入れを込めることを嫌うグールドは、たしかにロマン派には合わない。事実、グールドが弾いたシューマンは、あとにも先にもこの1曲だけ。

 しかし、ここではいつもの彼の、音が際立って粒を揃える奏法は鳴りを潜め、ジュリアード弦楽四重奏団と絶妙な距離感で最後まで弾ききっているという印象がある。むしろ、四重奏団の手綱を引いていると言うべきか。情感たっぷりの、温もりとも慰めともいえる弦に対して、硬質のピアノで適度な緊張感を与えている。だから、聴いていてベタベタした感じがない。ロマン派の楽曲を思い入れたっぷりに演奏されると、この時期の梅雨空のように鬱陶しくなるが、この演奏は絶妙な風通しがある。

 

 では、実際に聴いてみよう。

 第1楽章を聴くと、ああシューマンはベートーヴェンを尊敬していたのだなあとあらためて実感する。いかにもピアノ四重奏曲の基本にのっとった序章で、風格もある。

 ところが、第2楽章以降にシューマンの表現したい世界が詳らかにされる。まず、このスケルツォのおどろおどろしい躍動感はどうだろう! 万華鏡のようにカノンが交差し、恋が燃え上がる予兆のようだ。グールドのスタッカートが弾ける。ハラハラドキドキが止まらない。

 一転して第3楽章の得も言われぬ美しさはなんと言えばいいのだろう。曲調はゆったりとたゆたうように流れ、聴く者を陶酔の世界へといざなう。これを聴いてなにも感じないとしたら、音楽とは縁がなかったと思った方がいい。それほどに幽幻なメロディーだ。もっとも、この楽章の美しさは、前章のスケルツォがあってこそ活かされているともいえよう。

 最終楽章は、絢爛豪華に音が絡み合い、見事な大団円へと向かっていく。

 シューマンは、だれか愛しい人を想ってこの作品を書いたのだろうが、いずれにしても、遠く離れた東洋の島国で、葬送曲として使われることになるとは夢にも思わなかっただろう。ね、シューマン先生。

 

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