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紺碧の将

バルザックの慧眼

2011.04.18

 先日、レンブラント展を見た。パッと見はパワープレー、しかし、じっくり見ると繊細だ。ひとことで言えば、天才中の天才。久しぶりに本物の力に圧倒された。

例えば、銅版画。色を用いず、細かい線だけで表現しているにもかかわらず、物の材質感(柔らかな布と固い金属の感触など)や、光がつくるハイライトと陰影がじつにリアル。かといって、写真を写しただけのような写実的な表現でもない。なにより、人物画がすごい。ちょっとした瞳の線で、その人の性格まで描写している。ちょっとぉ〜、レンブラントさん、才能あり過ぎじゃない? と思わず呟いてしまった。

作品を見ながら、ふとバルザックを読みたくなった。パワープレーと繊細さという意外な組み合わせは実にバルザック的であるし、レンブラントの作品はヨーロッパ古典文学によくある挿し絵の雰囲気がたっぷりなのである。

そこで自宅に戻り、まだ読んでいないバルザックを取り出す。老後の楽しみ?にとっておいたスグレモノが8冊。その中で『幻滅』を取り出し、さっそく読み始めた。

いきなりバルザックの真骨頂炸裂である。なんと人間はこんなに醜く欲深な生き物なのか! とあらためて思い知らせてくれる。自分の息子に事業を継がせ、子ども思いのフリをしながら、じつは息子からたんまりお金を吸い上げるガメツイおじいさんがいきなり登場するのだ。その後も、スキあらば人を蹴落とし、誹謗・中傷しようと蠢く社交界と庶民を虫けらのごとく軽蔑する上流階級の差別意識……。

 最近、『論語』などに親しむ時間が増え、すっかり性善説が身についてしまった風の高久であるが、やはり今でも性悪説の方がしっくりくる。といって、『論語』が信用できないということではない。むしろ、自分は論語的であると思っている(え? おまえはバルザック的だって?)。

 ただ、世の中はいい人ばかりではないし、悪い人ばかりでもない。一人の人間の内にも善なる部分と悪なる部分が混じっているだろう。『論語』も面白いし、徹底的にリアリズムの『君主論』も大好き、つまりはそういうことだ。大半が「良い人」である日本人の中で生活していると、この小説の悪さ加減は爽快でもある。

ところで、バルザックは90篇以上もの長編を残した。小説のアイデアを担保にしてあちこちの出版社から金を借りまくり、女道楽につぎこんでしまったために、一日20時間くらい書き続けても間に合わないという凄惨な状況が続いていた。パリのパッシーにあるバルザックの家に行くと、借金取りが来たら逃げ隠れる秘密の通路があったりして面白い。その家に猛烈な朱が入った生原稿があるのだが、見ているだけでクラクラしてくる。結局、私はそこに2度も行ってしまった。

そんなことを思い出しながら『幻滅』をじっくり味わいたい。この作品、メディア界のダーティーな部分を見事に描ききった作品だが、現在だからこそ光彩を放っている。

 そう、今いちばんダーティーな世界は政治でも経済でもない。オモテは正義漢ぶりながら、その実、ハイエナのような実態のメディアである。

 バルザックの慧眼に唸るばかりである。

(110418 第244回 写真はバルザックの生原稿。校正の跡が凄まじい)

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