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紺碧の将

美しすぎて

2009.11.21

 取材で姫路を訪れる機会を利用し、姫路城へ行った。

 初めて見るその姿はあまりにも美しく、とてもこの世のものとは思えないほどであった。

 と言うと、「またぁ、大げさな〜」と思う人もいるかもしれないが、実際にそうなのだから仕方がない。姫路城を見て、もし何も感じないとしたら、もはや人間をやめて冷蔵庫にでもなった方がいいのではないかと思う。

──名人は、いつも何か美味いものをご馳走してあげようとしています。ところが、私たちの方で味わう力がないために、いつも空腹をかこっているのです──。(岡倉天心)

「名人」とは、「人」に限らない。

 

 さて、何がすごいかって、まずは全体が醸し出す威容である。人もそうだが、城にも一瞬にして見る相手を納得させる「存在力」というものがある。人や城でなくても、すべてのものに共通して言えることだ。

 遠目から見て、天守閣はかなり高い位置にあるのだろう。まず、大手門前に立って天守閣を仰ぎ見る時の角度が絶妙だ。ありがたいものを恭しく眺める、という姿勢になる。これが大切だ。

 さらに中へ入り、広い敷地の中を順路にしたがって歩いていくと、天守閣に至る道が頻繁に向きを変えることに気づく。これは敵が攻めづらいように、という意図もあるのだろうが、それだけではなさそうだ。方向を変えるたびに、目の前に形容できないほど美しい絵が現れるのだ。道のつくり方と傾斜、壁の漆喰や石垣と樹木の種類の組み合わせの妙……。どこを切っても茶室の中の床の間が醸し出す心地よい緊張感のある調和が見てとれる。しかも、徐々に天守閣(クライマックス)へ近づいていくという胸の高鳴りまで計算されているかのようだ。

 遠景での威容にくわえて、近づいて見るディテールの妙にも感服する。雑な仕事がない。それぞれのプロが丹誠込めて仕上げたということが築城から400年を経過した今も伝わってくる。昔の日本人の美意識は、世界でもぶっちぎりだったと確信できる。

 ただ、こういうとんでもない歴史的遺産を、何のアンテナも張らずにただ歩いて見ているだけの人が多いように見受けられるのは残念なことだ。気のせいかもしれないが、やはり日本人の感性は鈍っている、と思う。おしゃべりしながら通り過ぎる人は多かったが、途中立ち止まって何かをつぶさに見ている人などあまりいなかった。それに比べて私はと言えば、周りの人に聞こえてしまうほどの大きなため息をもらし、ときどきブツブツとひとりごとを言っている。はたとそういう自分に気づくことがある。周りの人は、疲れたためにため息をもらしていると勘違いしただろう。

 

 姫路城が素晴らしいと思えるのは、周りの環境にもある。大手門の前に立ち、天守閣を見るとき、180度の視界に余計な物は一切ない。たった一つさえも。

 国宝だったから、と言う人もいるだろう。しかし、われわれは「個人の自由」とか「経済の発展のため」といういかがわしい理由で、これまで多くの歴史的遺産が台無しにされてきたことを思い返すべきだ。

 あとで地元の人に聞いたところによると、周囲の建築規制はかなり厳しく、マンションも建てられないという。ということは、姫路城の周囲に不動産をもっている人は大きな制約を受けているということだ。これが「地域の力」であり「地域の文化」であり、それが「誇り」につながるのだと思う。

 つくづく思う。あのような美しいものを幼少の頃から見て育った人の情感は、汚い看板が林立しゴミゴミした都会の雑踏の中で大きくなった人と比べて明らかにちがいがあるだろう、と。

 

 姫路城はもうすぐ改築に入るので、関心のある方は今のうちにぜひ訪れてほしい。その折りには、隣接した好古園も訪ねるといい。昔のお屋敷跡の庭園だ。こちらも研ぎ澄まされた感性が隅々まで行き渡っている。

(091121 第129回))

 

 

 

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