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紺碧の将

どっちつかずの自由

2018.06.10

 松屋銀座で活字組版が展示されている。題して「図即地、地即図」。

 図とは白地に立ち上がった文字、地とは文字のない部分をいう。実際になにも現れない地があるからこそ、図が立ち上がるという原理に、普遍的な景色を見た。写真下でもわかるように、活字の列を支えるのは、まさに地なのである。

 かつて活字中毒者という言葉があった。私が23歳の頃に作った同人誌に、「トムは今日、活字を3杯おかわりした。ぜいたくな奴だ」というコピーを書いたことがある。トムとは飼い犬で、金属の活字を食べる犬という設定だった。稚拙ではあるが、当時の私の思いが詰まったコピーだ。

 印刷技術は、その後、オフセットへと変わり、活字の出番はなくなっていく。私が創業した頃はオフセット印刷が主流で、活字ではなく、写真植字いわゆる写植を使った。文字を印画紙に焼き付け、それを原寸大の厚紙に貼り、デザインを完成させる(版下)。それから製版という工程を通してインクごとのフィルムを作り、最後に印刷機にかける。ただ、この方法も、最終的に文字の凸部分にインクを乗せるという原理にちがいはない。

 その後、デジタルへと移り、もはや写植もない。「図即地、地即図」を感じる要素などみじんもなくなった。文字のない白い部分は、ただデータがないだけの白い部分に過ぎない。もちろん、それを「余白」として命を吹き込むこともデザイナーの役割でもあるが。

 この展示会のハガキにいい言葉があった。

――図と地を二項対立とは見ず、ましてや中立という立場でもない。「どっちつかず」な自由な眼を持つことが、タイポグラファーには求められる。それは、生き方の問題にも通じている。

 

 なるほど、これは土用という考え方にもあてはまる。なんにもないが、それがなかったらほかもなくなる。実は、世の中は、こっちの方が圧倒的に多いのだと思う。

 

※悩めるニンゲンたちに、名ネコ・うーにゃん先生が禅の手ほどきをする「うーにゃん先生流マインドフルネス」、連載中。今回は「過去と未来と現在、その向き合い方」。

https://qiwacocoro.xsrv.jp/archives/category/%E9%80%A3%E8%BC%89/zengo

(180610 第818回 写真上は展示会場。下は活字組版)

 

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