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紺碧の将

大久保利通の偉大な功績

2015.12.05

大久保利通像 時として、こういう奇跡が起こる。

 大久保利通、西郷隆盛、西郷従道、東郷平八郎、黒木為禎、山本権兵衛、大山巌……。この錚々たる面々が、ほんの狭いエリアにほぼ時を同じくして生まれたのだ。
 鹿児島市加治屋町。山口県萩市も偉人を多数輩出しているところで知られているが、こちらは吉田松陰という触媒があった。なんとなく合点がいくが、加治屋町は大きな要因を見出しにくい。ビートルズの面々がほぼ同じ頃、イギリスの地方都市に生まれたというのもずっと不思議だったが、どう見ても「時代の要請に応えた」という以外ない。
 前回、知覧を訪れたことを書いたが、その足で鹿児島市加治屋町に行った。前述の通り、偉人を輩出しているとんでもないエリアだが、私にとってはかねてから行ってみたかった特別の地でもあった。
 大久保利通。歴史上の人物を一人選べと言われれば、この男に尽きる。その次が徳川家康。その他にも素晴らしい人物は山ほどいるが、あとは順番がつけにくい。
大久保利通誕生の地 私が歴史上の人物を見る時の基準は、「好きかどうか」ではなく、「なにをしたか」である。正直、自分の周りに大久保や家康がいたとしても、あまり近づきたくない人間だと思う。しかし、この二人が生涯になしとげたことは他を圧倒する。
 家康の功績はわかりやすいが、大久保の功績も大きい。もし、明治初頭、大久保なかりせば日本はかなりの確率で列強の軍門に降っていただろう。

 

 明治維新までを「破壊」とすれば、それ以降は「創造」だ。創造と破壊を比べれば、物語としては破壊の方が圧倒的に面白い。事実、いまだに幕末のエピソードは多くの日本人の心を打つ。私も好きだ。
 しかし、考えてみてほしい。江戸幕府の制度を瓦解させた後、新しく国の形をつくりあげなければいけないのである。しかも、目の前に牙をむいた列強がいる。さらに言えば、武士階級の働きによって明治維新という革命をなし遂げたにもかかわらず、明治4年、廃藩置県によって200万人以上の武士を失業させたのだ。つまり、武器をもった人たちの不満が日本列島に渦巻いている時期だった。
 そういう時代、岩倉使節団として大久保や伊藤博文が長期間にわたって欧米を視察するという目的で渡航したのは、ひとえに留守組である西郷らへの信頼があってのことだろう。
 しかし、ヨーロッパにいる一団に入ってきた情報は、日本国内で征韓論が渦巻いているということだった。失業した武士階級の突き上げによって生まれた朝鮮征伐論である。大久保たちは西洋の軍事力や工業力を目の当たりにしている。朝鮮半島に出兵するのは愚の骨頂だと急ぎ帰国する。
 その後が有名な征韓論争だ。論争に敗れた西郷や板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らは新政権から離脱し、それぞれの郷里に下野する。この時が日本の最大の危機だったと私は思っている。そして、ここで強力な指導力を発揮するのが大久保だ。
 歴史の見方において、私がもっとも信頼をおく渡部昇一氏の言葉を借りる。
 ──本当の実力と地位が一致しているという状態は、日本史においてはその期間は長くはないのだが、その最たる例が明治初期の大久保利通だ。大久保は維新から死ぬまで権力の中枢にいた。「実力」と「地位」が一致していたという点で、大久保は維新政府の騎馬型人物であり、西郷は農耕型人物といえる。
大久保利通 また、こうも書いている。
 ──事をなす志を立てる人がいたら、政治家としては大久保に学ぶべきではないか。
 近代史に詳しい半藤一利は反薩長の色が濃い人だが、こう書いている。
 ──明治維新後の危機を乗り切ったのは、ひとつには大久保のたぐいまれな政治センスが大きかった。
 司馬遼太郎は心情的に西郷に与するものの、次のように書いている。
 ──大久保は日本国の政綱をまとめるにあたって、無数のように見える可能性のなかからほんのわずかな可能性のみを摘出し、それに向かって組織と財力を集中する政治家であったが、同時に不可能な事柄については、たとえそれが魅力的な課題であり、大衆がそれを欲していても、冷酷ともいえるほどの態度と不退転の意志をもってそれを拒否した。このようなことは当事者の精神の根底にいつでも死ねる覚悟がなければならず、大久保にはそれが常住存在した。
 石原慎太郎氏はこう書いている。
 ──西郷という人生かけての親友への友情よりも、大久保にとっては自ら預かることになってしまった日本という新生国家への忠誠心の方がはるかに大切だったのは自明で、もしも大久保が西郷との友情にかまけて政府を操り運営する仕事を投げ出してしまっていたら、今日の日本はあり得なかったにちがいない。
 堺屋太一氏も大久保の功績を大きく評価し、代表的な日本人の一人だとあげている。
 征韓論争後も大久保は清国との交渉など、日本人ばなれした圧倒的な外交術で成果を収めていく。
 おおまかにいえば、大久保は新生国家の運営を預かり、西郷は不満武士たちのガス抜きを一心に負ったともいえるだろう。その流れにピリオドが打たれたのが西南戦争だった。
 日本人は圧倒的なリーダーシップを発揮する人より、情に厚い人を好む。そのためか、大久保はつねに批判や妬みの対象になった。大久保を恨んでいる人がどこかの豪邸を写し、「大久保はこんな贅沢をしている」と鹿児島の西郷らに送ったが、実際、暗殺後にわかったことは、大久保に財産はほとんどなかったという事実だ。身も心も新生日本に捧げ、暗殺されるのを知って、なおかつ平然としていた。
 大久保利通。すごい人物がいたものだ。彼も時代の要請によってこの世に生まれた一人なのだろう。
 そんな彼の生誕の地、引っ越した後の住居地、そして銅像を間近に見ることができ、感無量だった。
(151205 第598回 写真上は鹿児島市加治屋町にある大久保利通像。中は大久保利通の生誕の地の石碑。下は大久保利通の肖像)

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