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紺碧の将

引き算のセンス

2014.03.11

和紙の花器 先日、新宿高島屋でいけばな展を見てきた。

 200以上の作品が所狭しと並べられ、それはそれで「デパート文化」らしさを呈していた。花好きの私としては、ひとつひとつの花を眺め、気に入ったものは子細に見つめるだけで満足なのだが、やがて、花を扱う人間たちにはいくつかのタイプがあることがわかった。

 勝手ながら分類してみよう。

1 とにかく私は主張したいのだ。花はそのための道具なのだ、というタイプ

2 花の個性を生かし、自分の感性・技術と調和させるタイプ

3 花に感謝を捧げ、「活けさせていただきます」という心が表れたタイプ

4 花に力負けしてしまったタイプ

 という感じであろうか。

 案外、1が多かったのには驚いたが、それも当然といえば当然なのかも。なぜなら、自分を表現したくてあえていけばなをやっているはずだから。私がこのブログを書いたり、『Japanist』や本で表現するのと同じように。ただ、あからさまに自己主張の強い作品は、見ているだけで「ごちそうさまです」という気分になってくる。

 4は論外。しかし、哀しいかな、こういったグループ展は、いかに力量が劣っていてもお情けで出品させてもらえる。日本文化の脆弱なところだ。ほとんどの日本文化に共通するのだが、ある師匠について真面目に作品を作り続けていれば、作品の質の善し悪しにかかわらず、数年に一度は入選できるということを聞いたことがある。もし、そういうものを「恩情」とか「絆」と呼ぶのであれば、それはごまかし以外のなにものでもない。

 さて、この稿では、3について書いてみたい。

 過日、樹木医の塚本こなみさんと中田宏氏の対談を取材したが、そのときにも塚本さんがおっしゃっていた。「私が治してあげるという気持ちで臨むといい結果にならないが、私のような未熟な者でもお力になれるでしょうか。どうぞ、触らせてください」という気持ちで臨むと、樹木が本来の力を発揮してくれるようになるというのだ。

 さもありなんだと思った。それは人間関係においても同様のことがいえる。「オレがおまえたちを食べさせてやっている」「オレがおまえたちを雇っている」「オレがいるからおまえたちはなんとかやっていける」などと言いながら(あるいは、思いながら)人と接していたのでは、いい信頼関係を築くことはできないだろう。

 ところで、3についてであった。

 私はある作品の前で足が止まってしまい、しばし釘付けになってしまった。それが右上の写真である。撮影がへたくそでいまいちわかりにくいと思うが、要するに和紙を花器に見立て、その中に花を活けているのだ。もちろん、和紙のなかには薄いガラスの花器が入っている。作為もなにもなく、ただ、その花の美しさをひきたてるにはどうすればいいかと謙虚に考えた跡が漂っていた。おそらくこの人は、「あれもしたいこれもしたい、こんなこともやってみたい」と思ったはずだ。しかし、それらをすべて封印し、和紙の花器に活けただけ。まさに「引き算の美学」であろう。こういうセンスを学びたいと思っている。

 

 あれから3年が経った。合掌

(140311 第492回 写真上は和紙を花器に見立てたいけばな)

 

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