幸せはどこにある?(1)
幸せになりたい。おそらくすべての人がそう思っているにちがいない。そう自覚していない人も、心の深層部分ではそう願っているはず。人間は体に比べてかなり大きな脳を獲得し、それによって進歩を遂げてきたといえるが、あれこれ考え、悩むようにもなった。人間がその他の生き物と決定的に異なるのは、その一点ではないか。わが家には空と詩というネコがいるが、悩みがあるようには見えない。好きなときに食べ、眠り、遊び、飼い主に甘える。気が乗らないときは私がどんなにちょっかいを出そうとしても完全に無視をする。
見方を変えれば、人間だけが幸せを実感できるといえる。ネコたちの日常をつぶさに観察しても、とくべつ幸せを味わっているようには思えない。
では、人間はどうしたら幸せを感じられるのか。そもそも幸せとは何なのか。この永遠の命題について、数回にわたって私の愚考を掲載したい。
幸せとは「相対的であり、流動的である」と言ってしまおう。けっして一つの状態のまま、とどまってはいない。だから、まともに幸せを得ようと思っても、そうは問屋が卸してくれない。明確に「これ!」と言えるものではないものを求めているのだから、悩みから解放されないのは当然だろう。
なぜ相対的で流動的なのか、容易にわかるはずだ。例えば、食べるものに困っている人が、塩をまぶしただけのおむすびをもらったとする。そのとき、その人は幸せを感じるだろう。事実、太平洋戦争中の沖縄戦を描いた映画にそういうシーンがあった。勤労動員された女子たちにおむすびと味噌汁が提供されるのだが、女の子たちは満面の笑かべ、仲間たちと「幸せですね」と語り合うシーンがあった。これを作りごとと済ませるわけにはいかない。誰もがその立場に置かれたら同じように感じるはずだ。
ところが、である、戦争が終わって数年が経ち、じゅうぶんに食べられるようになったとき、おむすびをもらったとして幸せと感じられるだろうか。当たり前におむすびを食べられる状況下で。むしろ、「あの人は卵焼きも食べているのに、なんで私はおむすびだけなの?」などと他人と比べ、不満を持つ人が現れるだろう。という具合に、同じ現象でも、受け手の状況によって幸福感はまったくちがったものになる。
厄介だ、ほんとうに、幸せとは厄介なものだ。なのに、それを求めてしまう。ところが、ほとんどの人が、思ったようにはならない。人間は「もっと」を求めるからだ。それが人類に進歩をもたらした要因でもあるが、前述のように、自縄自縛の状態になっている。
やっかいだ。ほんとうにやっかいだ、幸せってヤツは。
(251110 第1296回)
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