徹頭徹尾、無私のひと
昭和天皇について書かれた書物はたくさんある。本コラムでも福田和也氏の『昭和天皇』を紹介しているが、保阪正康による本書は数ある昭和天皇関連書籍のなかでも群を抜いて完成度が高い。
正直に告白すれば、私は本書を読んでいなかった。保坂氏は保守の論客から〝左巻き〟と批判されていたため、どちらかといえば敬遠気味であった。くだんの福田和也もそう断じて、激しく批判していた。ところが、本書を読み、保阪正康こそ真の保守であると痛感させられた。この人が保守ではないと唱える人はかなり極まった右派といえる。右の端から見れば、中道右寄りも左に見える。なにごとも偏った考えはよくない。
保坂氏はなるべく客観性を保って昭和天皇を描くことを念頭においていたという。それでも、昭和天皇に対する氏の深い尊崇の念は隠しようがない。隠そうとしてもしてもにじみ出てしまうところに、彼の健全な保守性が窺われる。
私は、なぜ昭和天皇のような英邁な人が存在したのかと不思議に思っていたが、本書を読んで氷解した。偶然、昭和天皇が〝生まれた〟のではない。そうなるべくしてなったのである。
明治天皇は、皇孫教育の方針として、人格にすぐれた人物を師とし、主に人間教育に力を入れるとした。白羽の矢がたったのは、陸軍大将で軍事参議官の乃木希典。乃木は皇孫教育の方針として以下の6ヶ条を示した。「健康を第一と心得るべきこと」「よろしからざる行状のあったとき、これを矯正申し上ぐるに遠慮あるまじきこと」「成績について斟酌あるべからざること」「幼少より勤勉の習慣をつけもうすべきこと」「質素にお育て申し上ぐべきこと」「将来軍務につかせらるべきにつき、その指導に注意すること」
その後、御学問所に入られてからも憲法、国際法、国文学、漢文など、まさにリベラルアーツを徹底的に学ばれたのである。
昭和天皇は生涯に1万首以上の御製を残され、公表されているのは約700首といわれる。本書では多くの御製が紹介されているが、そこには名状しがたい共感と哀惜が込められている。本書を通読すれば昭和史のあらましがわかるが、そのとき昭和天皇がどう思っていたか、御製を読めばわかると言って過言ではない。明治憲法の規定によって、昭和天皇は「君臨すれど統治せず」の立場を貫かれたが、歯ぎしりしながら時局を傍観せざるをえなかった天皇の苦悩を想像することができた。宮内官僚の岡本愛祐は、張作霖爆殺事件の後、昭和天皇が次のような苦衷をもらされていたと証言している。
「夜も寝られない。こんなことでは国を滅ぼすことになる。皇祖皇宗から引き継いだ日本国を滅ぼすことになっては、祖先に申し訳ない。ことに国民に多大な犠牲を払わせることになる。それはとてもしのびない」
昭和天皇は戦争が終わるまで、ずっと忸怩たる思いであった。そして、終戦となるや、身を挺して日本国と国民を守った。自分はどのようになってもよいから、とマッカーサーに身をあずけた。戦勝国で構成された連合国会議では、日本に対して厳しい意見が大半を占めたが、それを食い止めたのはマッカーサー元帥であり、彼をそうさせたのは昭和天皇である。
戦後の全国巡幸は宮内省の新しい感覚をもつ側近たちが、天皇の意を受けて、ときに批判を浴びながらも実施された。この巡幸に関してもマッカーサー元帥の後押しがなかったなら実現していなかった。
全国巡行にかけた昭和天皇の覚悟が際立っている。伝染病が流行しているとき、側近たちはなるべく近づかずに声をかけていただきたいと注文をつけるが、昭和天皇はどこへ行っても一人ひとりに近づき、ときに肩に手をかけるなどして誠心誠意励まし続けた。それらが復興の源泉となったことは疑うべくもない。
なぜ日本は戦争に負けたのかという質問に対して昭和天皇が答えたくだりがこう記されている。
――第一点が「兵法の研究が不充分であった事」といい、日本の軍事指導者が己の実際を知らなかった点にあるとしている。第二点として、「余りに精神に重きを置きすぎて科学の力を軽視した事」。第三点は「陸海軍の不一致」、第四点は「常識ある首脳者の存在しなかった事」と。
本コラムで『失敗の本質』という戦争の敗因を総括した名著を紹介しているが、それらの分析を先取りした深い洞察力である。
最後にひとつ、本書から引用したい。軍部が昭和天皇の思いを無視し、暴走する原因になった考え方ともいえる。
――私はこの三十年余にわたり、軍事指導者や中堅幕僚に「なぜあなたたちは聖慮を正確に受け止めなかったのか」と尋ねてきた。その結果、彼らが「大善」と「小善」という考えをもっていたことがわかった。軍内の秘密結社・桜会の会員だったある軍人は、「軍人勅諭に忠実なだけでは小善であり、さらに陛下のお心を安らかにするためにもっと一歩前に出て、この国を一等国にするのが大善であると考えていた」と語っていた。
今にして思えば、こうした独善的な考え方が、天皇の意になんら則っていなかったことになる。むしろそれは、天皇に多大な負担をかけることになったのである。
ひとりの人間によって世界中が振り回されることもあれば、すべての国民が救われることもある。人間とはかくも得体のしれない生き物である。
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