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紺碧の将

読者の想像力を喚起する未完の大作

file.006『死せる魂』ニコライ・ゴーゴリ 岩波文庫

 

 未完成の作品である。シューベルトの「未完成」のように体裁が整っているのならまだしも、この作品は大事なものが決定的に欠けている。ゴーゴリはダンテの『神曲』をも意識して3部構成で書き始めたと言われるが、残っているのは第1部のみ。第2部は最晩年の狂乱状態の時、暖炉に投げ込んでしまったという。残された第1部も最後は尻切れトンボだ。大公の演説の途中、「〜われわれはとんと……」でいきなり終わっている。まるで音楽の途中でプチッと切れてしまったかのように。読者として、これ以上の欲求不満はない。さあ、チチコフにこれからどんな処置が下され、彼はどう更生していくのだろうかというところで、終わっているのだ。あゝ無情。

 

 物語の舞台は19世紀のロシア。アレクサンドル3世が農奴解放令を発する前のこと。当時のロシアでは、農奴は牛馬のように扱われていた。たとえ農奴が死んでも、地主は次回の国勢調査まで人頭税を支払わなければならない。この制度に目をつけたのが、主人公のチチコフだ。彼は大量の「死んだ農奴」の名簿を利用して中央政府から金をだまし取ろうと企んだ。

チチコフはある地方に出かけ、有力者たちを慇懃に訪ねた後、地域の地主たちを訪問する。どの地主も死んだ農奴の分まで税金を払うことに不満を抱いている。そこに、金を出して「死んだ農奴」を買ってくれるという話が舞い込むのだから、どこかにカラクリがあると疑心暗鬼になる。

 第1部は文庫本で3冊あるが、大半はチチコフとさまざまな地主との駆け引きが描かれる。それぞれの地主が事情を抱え、一筋ならではいかない。稀代の詐欺師チチコフも負けてはいない。人間性を失った人間同士のドロドロの交渉が延々続く。

 当時のロシアは(今もそうだろうが)、役人天国だ。役人がハンコを押さなければどうにもならない。そのため賄賂が横行する。役人の序列は、はっきりと等級で表され、その人がどのていどのクラスか、すぐに見て取れる。一方、農奴は犬猫以下の扱いだ。そんな社会がつぶさに描かれる。

 チチコフに対する疑惑が高まり、噂が広がっていく様子も凄まじい。チチコフが多くの農奴を買うのはなんのためか、と。男たちは社会的地位を狙ったものだと言い、女たちは知事の娘と結婚するためだと言う。噂は尾ひれがついて、膨れ上がる。

 チチコフの計画が発覚し、捕らえられた後、良心の鏡のような地主ムラーゾフが現れる。世俗にまみれた社会にも、このような高潔な人がいるというゴーゴリの社会観を呈したともいえる。チチコフに処置を下す大公も威厳がある。

 さて、永遠に消えてしまった第2部、そしてついに書かれることのなかった第3部はどのような内容だったのだろう。ゴーゴリの構想によれば、第2部はチチコフの改心を、第3部は真っ正直になったチチコフを描くというものだったらしい。永遠に紛失してしまったフォーレの交響曲のように、この世にないとなれば、それがどのような内容だったのか、俄然興味が沸く。しかし、結局は自分で想像する以外にない。

 まったく小説の態をなしていない本作だが、人間のおかしさ、哀しみ、滑稽さを、時にユーモラスに、時に鬼気迫る描写で暴き出すゴーゴリの筆力は、素直に認めなければなるまい。

 だって、こんなに未完成の作品が現代まで残されているのだから。

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