平凡な日常に意味を見出す術

カミュといえば連想的に不条理という言葉が浮かぶが、本書は不条理を理論的に解説した書である。そのほとんどは「不条理の論証」「不条理な人間」「不条理な創造」という哲学的エッセイに費やされるが、じっくり読んでもわかりにくい記述が多い。理屈はもういいから、具体的にどういうことなのか教えてくれないかと思っていると、最後のわずか6ページに「シーシュポスの神話」と題された小文が待っている。その部分を読むだけでもいいかも。
シーシュポス(シジフォスとも表記される)とは、ギリシャ神話に登場する王で、ゼウスを欺いた罪により、巨大な岩を山頂へ運び上げる使役を課される。しかし、頂上に到達するたびに岩は転がり落ち、再び運ばなければならない。この無意味な苦役を永遠に繰り返さなければならないという罰が、カミュの言う「不条理」というわけだ。
人間はどんなにきつい労働であっても、いつかこの苦役が実を結ぶにちがいないと「夢をもつ」ことができれば、そこになんらかの意味を見出すことができる。しかし、シーシュポスが課された苦役に終わりはない。成果も夢もない。
カミュは、人間の生はそれと同じように不条理だという。自分が望んだわけでもないのにこの世に生まれ、社会のなかで生きていくためにさまざまな努力を強いられる。しかし、どんなに頑張ったところで、だれもが死を避けることはできず、やがてそんな人が生きたことさえ忘却される、と。
思えば、カミュは考えすぎる人なのだろう。たいていの人間は、〝ふと〟そういうことを思うことはあっても、ずっと考え続けることはしない。忘れるのが人間の特性でもあるのだ。
シーシュポスの不条理のような例は、しばしば顕現する。
たとえば、ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領だ。以前、ケープタウン沖に浮かぶロッベン島へ行ったことがあるが、その小さな島はマンデラが20年以上も幽閉されていたところである。その島でマンデラは来る日も来る日も、大量の砂をある地点から他の地点に運ぶ過酷な労働を強制されていた。運び終えてもなんら成果にならない。翌日、また同じところに戻すだけなのだから。
マンデラが、そんなシーシュポスもどきの強制労働を耐えることができたのは、無意味な労働になんらかの意味づけをしたからだ。つまり、心のあり方・もち方を自分なりに工夫したのだ。
ユダヤ人に対するナチスの過酷な強制労働化においても、生き残ったのは、最悪の状況でも希望を持つことのできた人だと聞いたことがある。
シーシュポスが受けた罰に比べれば、われわれの日常にあるあらゆる仕事は、どれも神の恩寵ともいえるほど幸福なものだということに気づく。
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