死ぬまでに読むべき300冊の本
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紺碧の将

富で愛を買うことはできない

file.135『グレート・ギャツビー』スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳 中央公論新社

 

 20世紀、小説の中心地はアメリカへ移った。その先導者がスコット・フィッツジェラルドでありアーネスト・ヘミングウェイであった。

『グレート・ギャツビー』はフィッツジェラルドの代表作であるだけでなく、世界文学の方向性を大きく変えた重要な作品といえる。

 では、どのような点で方向性を大きく変えたといえるのだろうか。ひとつは、土着性が急速に薄くなったこと。フィッツジェラルドもヘミングウェイも19世紀ヨーロッパ文学的な土着性をほとんど持っていない。アメリカ合衆国という国家そのものが多国籍文化の混合であるように、民族と土地が分かちがたく結びついていた時代の文学とは一線を画している。以前このコラムで紹介した『風と共に去りぬ』は1936年の刊行、スタインベックの『怒りの葡萄』は1939年の刊行。1925年に刊行された『グレート・ギャツビー』に遅れるタイミングで世に出されたが、両作を最後にアメリカ文学は土着性を失っていく。

 余談だが、その流れの延長線上に村上春樹がいる。彼もまた日本という母国、あるいは兵庫県という土着性を持たない作家だが、彼が若い頃から20世紀アメリカ文学、とりわけフィッツジェラルドを愛読していたことと無関係ではあるまい。日本においても中上健次を最後に、文学の土着性は急速に失われていく。いいことか悪いことかわからないが、少なくとも私にとって、土着性が希薄で、ベタベタしていない作品は肌に合っている。だからこそ『グレート・ギャツビー』も贔屓の作品なのである。

 

 物語の舞台は1922年、未曾有の好景気に沸くニューヨーク郊外のロングアイランド。その7年後に大恐慌が起こることを予感する者はひとりもいない。狂気の沙汰としか思えない浪費が社会を席巻していた。

 ロングアイランドのウェスト・エッグに引っ越してきた語り手のニック・キャラウェイは、証券会社で働いている。隣の大邸宅では夜な夜な豪華なパーティーが開かれ、大勢の人が集う。

 ある日、ニックはそのパーティーに招かれる。しかし、そこに集う人たちは、その邸宅の主人ジェイ・ギャツビーの素性についてなにも知らず、根も葉もない噂だけが飛び交っている。

 やがて、ニックはギャツビーと親交を深めていく。そして、彼が長い間、心に秘めていたある女性への想いを知る。

 その女性とはデイジー。かつて彼とデイジーは愛し合っていたが、ギャツビーが従軍することになったことで、彼女は金持ちのトムと結婚した。トムは傲慢な性格で、デイジーに対しても不誠実だが、それでも彼女はトムとの生活を続けたいと思っている。

 やがてギャッツビーとデイジーは再会を果たす。ギャツビーは戦地から帰ったあと、愛する女性を振り向かせるため、酒の密輸で巨額の富を築いている。そして、デイジーに熱烈な想いを打ち明けるが、ある事件でデイジーをかばったことで悲劇を迎えることになる。

 この小説の肝のひとつは、ひとりの女性を一途に愛する純粋性が空回りしてしまうギャッツビーの滑稽さだろう。好きな女性の気を引くために、手っ取り早く金を稼ぎ、その力でデイジーとよりを戻そうと企む。

 しかし、デイジーはギャッツビーの意向に沿うことはない。

 フィッツジェラルドの人間観、社会観が如実に表れるのは、ギャッツビーの葬儀である。夜な夜な豪勢なパーティーに押し寄せた人々をはじめ、デイジーさえ顔を出さない。花ひとつ送ってこない。参列したのはギャッツビーの父親とニックだけ。

 そんな非情な人々を知って、ニックは思う。ギャツビー、君だけがあのなかで価値のある人間だったよ、と(それがこの小説のタイトルになっている)。

 後日、ニックはトムとデイジーに会う。しかし、デイジーはなにごとも起こらなかったかのようにふるまう。ギャツビーの一途な愛をもてあそび、死の原因をつくっておきながら、悔恨の表情ひとつ見せず、笑顔でニックに握手を求める。

 ニックは、これらの話を回顧録として語り終える。

 

『グレート・ギャツビー』といえば、自動的に村上春樹の名が浮かぶ。それほど両者は切っても切り離せない。そもそも彼が翻訳するまで、この作品は『華麗なるギャッツビー』というタイトルで通用していた。映画のタイトルもそうである。

 この作品に対する村上春樹の深い思いは、30ページほども費やされているあとがきにも表れている。彼は最も愛する小説として『グレート・ギャツビー』『カラマーゾフの兄弟』『ロング・グッド・バイ』をあげている。彼の長編『騎士団長殺し』は、明らかに『グレート・ギャツビー』へのオマージュだ。

 こうも書いている。

 ――複雑精緻、ひとつひとつのセリフ、ひとつひとつの行動が深い意味を持って、それぞれが有機的につながっている。――

 なぜ、この作品を翻訳したかについても、次のようにエクスキューズしている。

 ――不朽の名作というものはあっても、不朽の名訳というようなものは原理的に存在しない。翻訳というものは、言語技術の問題であり、技術は細部から古びていく。(略)翻訳というものは、基本的に親切心がものを言う作業。意味が合っていればそれでいいというものではない。文章のイメージが伝わらないことには、そこに込められた作者の思いは消えて失われてしまう。――

 春樹訳の特徴が如実に表れているのがギャッツビーの口癖「old sport」。これはギャッツビーが親しい友人へ呼びかけるときに呼びかける言葉だが、まず文中で「あなた」に「オールド・スポート」とルビを振り、その後はそのまま「オールド・スポート」と記している。それ以外に適当な訳語が見つからなかったと告白している。ちなみに野崎孝訳では「親友」となっている。話すたび、最後に「親友」とつけるのは不自然な気がする。

 

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