死ぬまでに読むべき300冊の本
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紺碧の将

卓越した人物造形が際立つ、破壊と再生の物語

file.121『風と共に去りぬ』マーガレット・ミッチェル 新潮文庫

 

 よくぞミッチェルは、スカーレット・オハラとレット・バトラーという類まれな人物を造形したものだと感心せざるをえない。

 スカーレットは、お嬢様育ちで美貌の持ち主。しかし気性が激しく、思慮分別に欠け、教養のかけらもない。3人の子の母親だが母性はほとんどない。いつも自分が中心でなければ気がすまず、人が嫌がることを臆せず口にし、敵をつくることもいとわない。一方でどんなに打ちのめされてもへこたれない不撓不屈の精神をもっていて、商売にも長けている。決断力も実行力も男まさり……。

 レットは、社会の動きを見抜く卓越した眼力をもち、皮肉屋で計算高いエゴイスト。戦争が始まる前、南部の人たちは北軍に負けるはずがないと熱狂していたが、ただ一人、冷静に敗戦を予測していた。彼は熱に浮かされているかのような人たちを前に、こんなスピーチをする。

「皆さんは、南北境界線以南には一つの砲兵工廠がないということを御存知ですよね。製鉄所や整毛工場、製綿工場、皮革工場も少なく、一隻の軍艦もないために、南部の港湾を北軍の軍艦で閉鎖されたら木綿を外国に売ることができないということも……」

 そして南部が持っているのは、ただ綿花と奴隷と驕慢だけだとまで言う。彼は軍隊には加わらず、北軍による海上封鎖を破り、商品を売買することで巨万の富を築いていた。そんな彼を、南部の人たちは嫌うが、レットは歯牙にもかけない。

 スカーレットとレットは、ロダンの彫刻のようにリアリティがある。とても初めて書いた作品とは思えないほど緻密な人間描写だが、著者が女性だからこそ、スカーレットの複雑なキャラクターを書けたともいえるだろう。

 わからないのは、なぜレット・バトラーのような男を描くことができたのか、である。レットの怜悧な頭脳は、その戦争がどのように帰結するのかを明快に言い当てている。南部の人たちは現実を見ようとせず、「南軍の兵士一人は、北軍兵士の10人以上の価値がある」と根拠のない、まるで旧日本軍のような楽観的な見通しに酔っていた。

 事態はレットの予測したように推移し、南軍は北軍に蹂躙される。

 彼はスカーレットにこうも言う。

「巨万の富を得る機会が2度ある。一つは建国のとき、一つは国が崩壊するとき。建国のときは、徐々に金ができるが、一攫千金は崩壊のときだ」

「きみ(スカーレット)はだれかをいじめずにはいられない性分なんだ。この世のなかは、強い人間はいじめるように、弱い人間はいじめられるようにできている」

 このリアリズムあふれるセリフをレットに言わせるミッチェルっていったい……。

 この物語は南北戦争を描いているが、戦争の現場は描いていない。女性であるミッチェルにとって、戦場の描写は想像をどう駆使しても描けなかっただろう。その替わり、微に入り細に入り、銃後の人たちにいかに大きな犠牲を強いるものか、丹念に描いている。

 この物語の経糸は、南北戦争が始まった1861年から、戦争が終わり、南部人に圧政を強いた再建時代が終わろうとする73年までであり、舞台はアメリカ南部・ジョージア州。横糸はスカーレットとレットのすれちがう愛情であろう。その二人に加え、スカーレットが恋慕し続けるアシュレとその妻メラニーが物語に彩りを添える。自己中心的なスカーレットと聖母のようなメラニー、大胆で行動的なレットと世の中の変化に対応できない文学肌のシュレという2組の対比も興味深い。

 物語の大筋は、映画などでもお馴染みだろうから、ここではあえて紹介しない。

 発表当時から人種差別の表現が多く、批判の的だったようだが、たしかに現代の常識に照らし合わせると、違和感を覚えざるをえない。黒人は黒奴と表記され、くろんぼとルビがふられている。土人という表記もある。さらに、身体的な障害に関する記述も多い。私が読んだのは昭和52年発行の新潮文庫版(大久保康雄・竹内道之助訳)だが、当時はいまよりうるさくなかったとはいえ、強烈な差別表現満載である。

 しかし、当時の南部の状況を語ろうとすれば、このような表現は避けて通れなかったのだろう。なにしろ、人間が奴隷市場で売買されていたのだ。『南部の反逆者』(この作品も、主演はクラーク・ゲーブル)という映画を見ればわかるが、外見上は白人でも、黒人の血が混じっていれば奴隷として扱われ、競売にかけられた。

 この作品のタイトルはじつに多様な意味を含んでいる。

 スカーレットが命からがら故郷のタラへ戻るとき、スカーレットの脳裏に次のような言葉が去来する。

 ――タラは、まだ無事なのだろうか? それとも、タラもやはりジョージア州を吹きまくった風と共に去ってしまったのだろうか?

 これは、イギリスの詩人アーネスト・ダウスンの詩「シナトラ」の一節にある語句である。南北戦争という大きな嵐によって、古い南部の貴族文明が消え「去った」ことを意味すると言われている。映画では、孤立無援になってしまったスカーレットが、タラの土を口に含み、逆境を越えてたくましく生きていこうとする姿を印象的に描いているが、まさにこの作品は、破壊と再生の物語でもある。

 

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