人類が創った最高峰の音楽遺産
ベートーヴェンの第5番とともに、この作品は人類が創った音楽のなかで、最高峰に位置することは明白である。音楽に好き嫌いはつきものだが、これらの作品は個人の好き嫌いというレベルをはるかに超えた高みにある。
この曲がウィーンで発表された1824年当時、ベートーヴェンの耳はほとんど機能していなかった。初演の時、曲が終わってもまったく気がつかず、近くにいた女性歌手がベートーヴェンを客席の方に振り向かせ、熱狂的に拍手する聴衆の姿を見せたというエピソードがある。耳が聞こえないのに、これほど複雑で壮大な音楽を創れるものなのか。聴くたびにそう思う。これが奇跡でなくて、いったいなんなのだ!
この作品の自筆譜はユネスコ記憶遺産に登録されている。また、第4楽章の「歓喜」の主題はEUの統一性の象徴として採択されているほか、ローデシアの国歌として、あるいはコソボ共和国の暫定国歌としても認定されている。
ただならぬ妖気に満ちた導入部をどう言えばいいだろう。ほんの数十秒で、これから起こる、ドラマチックな展開を予感させる。生演奏を何度も聴いたが、そのたびに鳥肌がたつ。
第2章は溌剌とし、スリリングでもある。小刻みな音が続き、なかなか展開しない。力を溜めているのだ。
この作品の〝肝〟は第3楽章にある。慣れるまでは退屈かもしれない。変化がなく、ゆるやかな曲調がずっと続く。この穏やかな調和は、さまざまな不安を払拭する、安寧の象徴のようでもある。この瞑想的な調べを経るからこそ、第4楽章の「歓喜」の主題がいっそう輝く。
ベートーヴェンがすごいところは、文句のつけようがない第1〜3楽章に否定的な見解を示して次の第4楽章へ移ることだ。バスの歌手がおもむろに立ち上がり、「おお友よ、このような音楽じゃない」と歌い出す。そして、「もっと喜びにあふれた歌を歌おう」「フロイデ(歓喜だ)」と続く。これほど挑発的な展開はないだろう。
そして、あの「歓喜の歌」につながる。「勝利に突き進む英雄のように、自らの道を行け」「抱擁とキスを全世界に」「すべての人々が兄弟になるのだ」など、強烈なメッセージを立て続けに放つ。
これでもか! と高揚させながら劇的なフィナーレへと導く合唱を聴いていると、あまりの神々しさに自分の奥深くにある〝なにものか〟が震え始めるのを感じる。感動などという生易しい言葉では伝えきれない。
では、これほどの名作を誰の演奏で聴けばいいのか。これは音楽ファンにとって、永遠の課題ともいえるし、持論を戦わせる楽しみでもある。私も、フルトヴェングラー、ベーム、クレンペラー、ラトルなどの他、数十種の演奏を聴いた。
結論から書けば、「やっぱり」カラヤンだった。カラヤンの「第九」によって、彼の底力を思い知ることになった。彼の実力と名声によって集められた当世随一の演奏者たち、とりわけ歌手たちの高い実力と表現力に驚嘆せずにはいられない。
1983年に録音された、お馴染みの盤はもちろんだが、意外だったのは、日本の普門館での演奏を録音したもの。音の一粒一粒が溌剌とし、生命力がみなぎっている。特に第4楽章の「合唱」における壮大な展開は、「さすが皇帝!」と唸ってしまう。
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