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紺碧の将

音楽でビンタをくらう

2010.12.12

 音楽とはかくも凄まじいものだったのか! 強烈な往復ビンタをくらったような衝撃的な体験だった。

 先日聴いた東京シティ・フィルの定期演奏会。指揮はオーボエの第一人者・宮本文昭。演目はブラームスのピアノ協奏曲第1番と交響曲第1番。

 ときどき、完璧なまでに壮絶で美しい演奏に出くわすことがあるが、大半は中堅のオーケストラだ。目指すものがあるからだろうか。とにかく、安住していないオーケストラはまれに刮目するような演奏をする。

 サッカーの名門チーム・ACミランが数年前、世界ツアーと称した興業をやっていたが、試合内容はといえば、緊迫感に欠けるふざけたものだった。それと同じで、どんなに一流のオーケストラであっても毎回完璧なパフォーマンスはできない。だから、大枚はたいて一流のオーケストラを追うばかりが能ではない。

 

 さて、その演奏会だが、とりわけ素晴らしかったのが、フランス人ピアニストのジャン=マルク・サイサダ。会場全体の気を集め、脳天から脊髄を通して指先に集め、一気に打鍵する姿はまさに鬼神そのものだった。打鍵の反動で椅子から飛び上がってしまうほど。しかも、それでいながら無駄な力はまったく感じさせなかった。緩やかなメロディーには優雅な身のこなしで対応し、オーケストラにバトンをタッチした後はガムを噛む余裕さえあった。

 会場に居合わせた数千人が固唾をのみ、緊迫した空気の中であの壮大な音楽を共有する時間は、まさに「極楽」であった。数千人の「気」が渦巻いている空間というものは言葉にできないものがある。

 結局、芸術は何でもそうだが、生み出すものと、育むものと、愛でるものとがひとつになって、はじめて形になる。つまり、宇宙の成り立ちのようなものだ。

 

 その日の夜、演奏を反芻しながら思ったことがある。

 西洋人の恐ろしいまでの創造性と合理性にあらためて驚愕したということ。

 とりわけ、交響曲や協奏曲は大がかりである。どうしてあれほどの芸術を生み出せたのか、まったく想像さえできない。音階、調性、和音、そしてリズム。それらを見事に体系だて、しかも譜面という記録にしている。さらに、その表現方法を教え継ぐシステムを作り、今に至っているということ。

 この分野は日本人がどんなに頑張ってもできないことだ。近年になって、演奏のレベルは格段に上がったが(特に弦楽器)、こういう世界を一から構築することは逆立ちしてもできない。17〜20世紀初頭にかけて、あれほど巨大な芸術体系を創造したという事実に度肝を抜かれるのである。

 もちろん、日本人にも俳句や短歌やお茶など独自の感性があるが、根本的に西洋人と違うということ(優れた部分も劣る部分もあるということ)を怜悧に見つめなければいけないと痛感した。けっして、傲慢になってはいけないな、と。卑下する必要はもちろんないが、かといって、西洋人を蔑んではいけない。そういうことを痛感させられたコンサートでもあった。

 われわれ日本人にできることは、東洋のいいものと西洋のいいものをミックスすることだろう。しかも、日本人の本質を失わず。飛鳥時代以降の神仏習合によって驚くべき宗教観を確立したように。

 西洋の文化を知りながら自国の文化に通暁する。そのための努力を怠ってはいけないとあらためて思った夜であった。

(101212 第215回 写真はイメージ。撮影者不明)

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