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紺碧の将

現代日本人の象徴

2019.06.09

 ――とうとう日本人はここまでひどくなってしまったのか。

 この哀れな街路樹を見て、愕然とした。

 先月、長野県のとある街で見た風景である。街路樹は幹だけを残し、枝という枝はすべて伐られている。5月といえば、新緑の季節。本来であれば、気持ちよさそうに若葉を揺らせる季節である。なのに、この無残な姿。必死に生きようとしているのか、数枚の葉っぱが生えている。それがまた哀感を誘う。

 これをよそごとと思ってはいけない。このような光景は、日本中どこででも繰り広げられている。特に地方はひどい。私が目にする限り、都内でここまでひどい例はない。

 ときどき事務所のある宇都宮へ行くたび、街路樹がどんどん姿を消し、殺伐としていくのをまのあたりにする。なぜ、公費を使って街路樹を植え、公費を使って伐採するのか。理解に苦しむ。住民もあまり関心がないようだ。剪定の手間が省けて落ち葉の処理も必要ないし、見晴らしも良くなってちょうどいい、とでも思っているのだろうか。

 背景はおおよそ見当がつく。「落ち葉が汚いからきれいにしろ」というような苦情に役所が〝対応〟するからだ。

 もともと、民主主義というのは、社会的な意識が高く、自分より他者や社会全体を慮る心のある人が議論をして社会のルールを決めるものであったらしい。いつしか国民全員が参加し、多数決で決めることになった。それだけならまだしも、今は少数のクレーマーの不平・不満が通る社会になった。ことなかれ主義に徹する役所は、声の大きな人の言い分を聞く。この悪のスパイラルが、増長している。民主主義の断末魔である。自分たちで自分たちの首を絞めている。せっかく得た権利を、自ら価値を貶めていることに気がつかない。

 もとをただせば、戦後の左翼が悪い。権力の横暴をチェックすることは必要だが、社会福祉と個人の権利のバランスは、良識によって図られるべきだ。けっして、〝わがまま〟が最大限許されるということではない。

 しかし、戦後、日本に本物の左翼はいない。政治など要職についている人や知識人も含め、「ただ不平・不満を並べ立てる人」、それが左翼の実態だ。

 人間だれしも、なんらかの不満を抱えている。大半は、どうにもならない不条理なものか、自分に起因するものだ。しかし、不平・不満屋はそう考えない。「人が悪い、会社が悪い・学校が悪い・自治体が悪い・国が悪い」と、その原因を他者に求める。

 昨年、平野啓一郎の『ある男』を読んだ。作品としては素晴らしいと思うが、こういうシーンがあった。

 死刑廃止運動の集会でのことだった。死刑廃止論者(平野啓一郎の持論?)は、「社会が悪いから犯罪をおかしてしまったのに、罪を犯してしまった人に社会が死を与えるのはおかしい」と唱えていた。

「社会が悪い?」と首をひねった。ここまで至れり尽くせりの社会を実現したのに、いったい、どういう社会になれば、社会のせいで人を殺すことがなくなるのだろう。その日食べるものもままならないという生活が続いた時代に生きていた人が見れば、現代の日本など、天国にも思えるだろう。それなのに「社会が悪いから人を殺す」のであり、それなのに「社会が人を罰するのはおかしい」という論法は、どう考えてもムチャクチャだ。この論法を使えば、どんな殺人犯も、本人が悪いのではなく、社会が悪いということになってしまう。

「天下の大事は必ず細部よりおこる」(老子の一節)

 日本人の情緒の劣化、社会性の欠如、傲慢な個人主義の増長、履き違えられた人権……。急速に変質している日本人の姿が、この街路樹に表れている。こんな風景が当たり前のようにあるのは、日本だけではないか。

 私はその遠因は、現憲法にあると思っている。日本国憲法をつくったアメリカ(当時の)の狙いは、ほぼ達成されたようだ。悔しい、情けない、そして腹立たしい。日本国憲法のすべてが悪いとは思わないが、多くの欠陥を抱えたままである。それを放置するのは、国民の不作為といえる。戦前、軍部が増長したのも、憲法の不備に手を加えなかったからだ。「いつか来た道」という言葉は、護憲論者たちに言いたい。

 

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(190609 第907回)

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