手塚治虫に失望させられた
なんと、今夏、那須御用邸にご行幸される天皇・皇后両陛下をお迎えする列に加えさせていただく僥倖に恵まれた。日取りは明かせないが、そう遠い日ではない。
私が日本女性の中で最も尊敬しているのは、なにを隠そう、皇后陛下である。皇后陛下の御歌がフランス語訳され、彼の地で評判になったというのは『祈りの御歌』という本に詳しいが、美智子皇后陛下の感性と表現力は “この世のものとは思えない”ほど傑出している。しかも、歌だけに限らず、多方面に才能を発揮されている。さらに、あの淑やかな立ち居振る舞いである。それをどうしてリスペクトせずにいられようか。
そのような畏れ多い状況下でもあるので、今回は沼津御用邸について書きたい。
沼津御用邸は明治26(1893)年、ご容態がすぐれなかった大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために造営された。以後、昭和44年に廃止となるまで明治、大正、昭和と、歴代の天皇皇后両陛下や皇族の方々に利用されている。
沼津御用邸が建てられた当時は、近隣に大山巌(陸軍大臣)、川村純義(海軍大臣)、大木喬任(文部大臣)、西郷従道(陸、海軍大臣)の別荘が建てられていたというが、そうそうたる面々が駿河湾を臨むこの温暖な地に保養所を構えていたのである。
ある年の初夏、沼津御用邸跡の記念公園を訪れたが、敷地は広大で建物は手入れが行き届いていた。やはり日本人のDNAを引き継いでいるので、やんごとない空気に触れると条件的に背筋が伸びる。
右上の写真は、調理室である。最新のキッチンなどと比べると、時代がかっているのは仕方ないと思うが、じつに清潔な佇まいであった。この調理室で働いていた人たちは、極度の緊張と誇りを同時に味わっただろう。
ところで話は変わるが、先ほど手塚治虫の『ブッダ』が映画化されたことがきっかけとなり、書庫の奥から原作の『ブッダ』を全巻取りだして読み始めた。けっこう面白かったので、余勢をかって『火の鳥』全巻を取りだし、読み始めたのだが、第1巻で「おや?」と思った。日本の古代史上、重要な役割を果たす卑弥呼がとんでもない悪女に描かれているのだ。さらに、神武天皇も極悪非道の輩に描かれている。読んでいるうちに不愉快指数が上昇したと思ったら、次のような記述に出くわした。
──神武天皇。この名前を日本人たちはどんなに神々しくうやまい、心の底にきざみつけたことだろう。
しかし、神武天皇は、実際には存在しなかったという。神武天皇はじめ、はじめの頃の十代ほどの天皇たちは、ずっとあとになって、崇神天皇の頃につくりだした、架空の天皇らしい。だから、みんな百歳近くまで生きていたなどと、でたらめなことを書いている。
では、神武天皇が金のトビなどを使って、敵をたいらげて、ヤマトにはじめての日本の政府を築いたのはうそだったのだろうか。
だれかが、ヤマト朝廷をつくったことはたしかだ。学者の説では、大陸からきた騎馬民族のうちのだれかが、それまでの日本の原住民を征服して、ヤマトに国の都をつくったのだという。日本はこうして、侵略と、戦いと、歴史の中で、だんだん国がととのっていったのだった。──
ちょっとぉ、手塚治虫さん、あなたはそんな考えの人だったんですか?
失望を通り越して、愕然とした。
祟神天皇以前の天皇が実在していたかどうか、正確なことは誰にもわからない。実在していたという正確な記録がないというだけの話で、いなかったと言い切れるものでもない。少なくとも、祟神天皇に親がいたのは事実。ここでいう「学者」は、澤田洋太郎のような、明らかにGHQ史観に染まった左翼学者だろう。そういう人の唱えることにかどわかされてこんな文章を書いてしまったとしたら、あまりにも軽率というものだ。
万世一系の天皇を戴くわれわれ日本人にとって、そんなことはどうでもいい話だ。神話とつながっている皇統というものを科学的に論じて、いったい何が得られるのだろう。聖母マリアが処女懐胎をしたと聞いて、キリスト教の人たちは実際にありえないからと言って「でたらめ」と断ずるだろうか。マーヤー夫人の右脇の下から生まれたブッダはどうなってしまうのだ? それを「でたらめ」だと声高に言う仏教徒はいるだろうか。
しかも、手塚治虫は、「日本の歴史は侵略と戦いの歴史」だと勝手に断定している。
相当歪んだ歴史観だと言わざるを得ない。亡くなられた方を批判するのは本意ではないが、この記述はあまりに偏っている。悪意の臭いがプンプンする。私はこれまで手塚治虫のファンだと自認してきたが、いっぺんに評価が変わってしまった。笑ってしまうほどに幼稚な歴史観と言わざるをえない。
まあ、それでも彼が素晴らしい作品を数多く遺したという事実に対する評価は揺るがないが……。
(110721 第267回 写真は旧沼津御用邸の調理室)