死ぬまでに読むべき300冊の本
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紺碧の将

薬にも毒にもなる思想

file.039『老子』蜂屋邦夫訳注 岩波文庫

 

 なんて射程の長い、そして奥の深い思想だろう。

 2009年、東洋思想家・田口佳史氏の講義で初めて「老子」に触れたときの印象である。なんともとらえどころがなく、それでいて心の奥の、そのまた奥にあるなにかが刺激されたような、奇妙な感覚を覚えた。なにを言いたいのかわからない文章もあったが、漠然と抱いていた疑問が少しずつ氷解するような、得も言われぬ感懐を得た。

 その後、10年近く経て、自らの血肉にしようと企み、全文を暗記・暗誦することに決めた。2018年7月のことだ。それから1年2ヶ月を要し、毎朝紙に書き連ね、覚えた。

 ブログにも書いたが、ゴール直前、驚くべき体験をした。最終章の「第八十一」に着手し、いつものように全文を手書きをし、テキストで意味をなぞった。

 その日の夜、睡眠中のこと。なんと眠りながら勝手に脳が動いた。はじめの一節から一文字ずつ反芻し、ある程度のところまでいくと思い出せずにつかえる。それでも考える。つまり、夢のなかで暗記を繰り返していたのだ。朝起きて、テキストを見た瞬間、すべてが頭に入った。夢のなかでどうしても思い出せず、執拗に考え続けた箇所の答えが目の前にあるのだから、頭に入ってこないはずがない。人間の脳というのは恐るべき可能性を秘めていると実感した。

 とりあえず全文を覚えたが、それを後生大事に抱え込むつもりはない。「尽(ことごと)く書を信ずれば、則ち書無きに如かず」という孟子の言葉にもあるように、書物(あるいは人の話)をすべて信じ込むことは賢明ではない。無謬性が成り立つのは宗教の世界だけ。なにごとも盲信はしたくない。

 暗記とともに「老子」の全文をワードに入力してきたが、そのなかから自分にとって必要な部分と不要な部分を選別し、エッセンスを抽出した。老子は紀元前5世紀頃の人であり、もともと隠遁の傾向が強い。そのような人の処世訓や政治論は、現代に当てはまるとは限らない。

 では、「老子」でもっとも重要なものはなにか。

 宇宙的視点、全体的・包括的な思考法だと思う。それらを自分の心身に落とし込み、今後の人生の糧とする。そのため徹底的に推敲した。

「老子」が最上位に置いている「道」は、儒教の「天」をも超えるスケールがある。万物を生成する根源であり、すべてを包んでくれる大いなる懐、それが道である。

「老子」の楽しみ方のひとつは、道とは具体的にどういうものかを想像するヒントが散りばめられていること。道は見えないし聞こえない、とらえようとしてもとらえられないと書かれている。だから「もとより混じて一となる」とある。

「じゃあ、どうすればいいんだよ」と毒づきたくもなる。それを見透かしているかのように、「淵として萬物の宗に似たり」「湛として存するあるに似たり」とヒントを小出しにくれる。人間の知覚ではとらえられないが、あることはたしかにある、と言っているのだ。

 この世のなりたちを想像するにおいて、格好の文言が「道化第四十二」にある。

 ――道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず。

 道から生じた一は見えるか見えないかわからない玄妙なもので、そこから二(天地)が生じ、そこに三(陰と陽の気)が生じ、それが萬物を生むと言っている。緻密な天の運行や生態系の秩序、はたまた生き物の精緻な仕組みなど、もともとは道が生み出しているというのだ。だからなのか、「老子」は女性性を良しとし、柔らかいもの、弱いもの、ゆったりしたもの、下に位置するものなどを上位とする。反対に、硬いもの、屈強なもの、上にいるものを戒める。

 上善は水の如し(易性第八)とあるように、水は柔らかいものの典型だ。特別の形をもたず、器に従って満ち、溢れれば下へ下へと流れる。谷は、だからこそ豊穣だ。しかし水はひとたび暴れ出せば、すべてを飲み込み、破壊する力をもっている。萬物を育む水は、一転して津波にもなる。

「老子」を読めば読むほど、どうしてうまくいく人生とそうでない人生があるのかが理解できる。「本源に則しているか」「作為を弄していないか」なのだ。

「老子」はスケールが大きく、根底から考え方を変革させる力を秘めているが、劇薬ともなりえる。文言の解釈によっては限りなく怠惰な人生に陥るか、現実を忌避して隠遁するきっかけとなる可能性がある。

 毒にも薬にもなる思想、それが「老子」の魅力である。

「老子」を解説した本は無数にあるが、まずは教科書的なテキストとして本書をお薦めしたい。

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