死ぬまでに読むべき300冊の本
HOME > Chinoma > 死ぬまでに読むべき300冊の本 > 稀代の軍略家にして、リアリズム溢れる政治家の生涯

ADVERTISING

私たちについて
紺碧の将

稀代の軍略家にして、リアリズム溢れる政治家の生涯

file.021『武田信玄』新田次郎 文春文庫

 

 新田次郎が毎月30枚、100ヶ月を要して書き上げた本作には、人間の本質があますところなく描かれていると言って過言ではない。風の巻・林の巻・火の巻・山の巻に分かれた4冊組、計3,000枚に及ぶ大団円である。

 ページを繰れば、若き日の晴信の眩しいほどの煌めきに触れることができた。時に失敗をしながら、驚くほど急速に成長する晴信に会えた。やがて出家して信玄となり、人心を掌握しながら版図を広げていった様子をつぶさに見ることができた。日々、命のやり取りをしていた戦国時代ならではの、智謀の限りを学ぶことができた。甲斐という貧しい国を豊かにし、あわや天下を取る寸前まで国力を増強していく過程を観察することができた。そして、どんなに最強を誇っても、やがて衰退へ向かうという天道の摂理を思い知らされた。

 この4巻を読んでいる間、いったいどれほど心が打ち震えたことか。何百人もの人間と会ったような感覚に陥った。

 読みながら思った。武田信玄のバランス感覚は、自然の法則のごとく理にかなっている、と。武将としても軍略家としても政治家としても、そして動物のオスとしても絶妙のバランス感覚のうえに立っていた。生まれた場所がもっと京都に近かったら、天下をとっていただろう。家督を継いで約30年間、成長し続けたことは奇跡的でさえある。負け戦はたった一度だけ。

 その信玄が、こう言っている。

 ――凡そ軍勝五分を以て上と為し七分を以て中と為し十分を以て下と為するの故は五分は励を生し七分は怠を生し十分は驕をするか故たとえ戦に十分の勝を得るとも驕を生すれは次には必す敗るるものなりすへて戦に限らす世の中の事此の心かけ肝要奈利

 

 自分の体験から会得したものだろう。若い頃の信玄は自信家で、驕りによる失敗を幾度か味わった。それをのちに活かしたところに、非凡さがある。なにごとも失敗から得るものは大きい。

 この作品において、謙信は少し損な役回りである。義の人というより、名誉に固執する人として描かれている。わざわざ京都に出向いて関東管領の職を所望するところがそうだ。信玄は、そんな名ばかりの職など、歯牙にもかけない。リアリストなのだ。「敵に塩を送る」という事実はなかったと新田次郎は書いているが、日本人はそういう美談をこしらえるのが好きだ。

 信長は明らかに絶世の天才だが、その分、欠如しているものも多く、自滅したのは当然の帰結といえる。人心を掌握できない以上、短期的には成果を得ても、けっして持続はできない。私が言うところの「すぐに得たものはすぐに失われる」である。

 その点、信玄は小憎らしいほど冷静で全体を俯瞰できた。戦わずにして勝つことを第一とし、そのため、膨大な情報網を張り巡らせた。現代でいえば、インテリジェンスである。それをもとに、あらゆるところに布石を打ち、調略した。この流れは、十手先を読んで全体がアメーバのように動く、サッカーの戦術と似ている。

 軍略家としての才覚は、芸術品のようだ。相手に合わせた陣形(フォーメーション)、人の配置(人事)を巧みに操り、成果をあげた者には恩賞を惜しまなかった。死ぬ前際、三方ヶ原の戦いで浜松城に閉じこもる徳川家康をおびき出すための戦術など、人間の心を知り尽くした神のごとき人物としか言いようがない。

 領国の経営にも腐心した。治水工事、金山開発にともなう技術革新、法整備、外交術など、いずれも政治家の嗅覚をもって成し遂げている。

 一方、オスとしても並外れている。女人を遠ざけていたという謙信と比べると、じつに俗っぽい。政略結婚で迎えた三条夫人との不仲を埋めるためか、湖衣姫、里見、恵理、あかねという、それぞれ個性的な側室を得た。湖衣姫は自ら滅ぼした諏訪家の令嬢であり、里見は男顔負けの馬術と歌をたしなみ、恵理は舞を得意とする控えめな女、そして追放した父にあてがわれたあかねは忍びの人でもある。側室とすることはできなかったが、おこことの情交は戦国武将らしからぬ純粋な面をさらけ出している。

 武田二十四将に代表される有能な家臣団から全幅の信頼を得、愛妾たちに慕われながら53歳の生涯を閉じた。「デキスギ君じゃない?」と突っ込みたくなるほど、存分に人生を燃焼し尽くした。

 

 武田信玄の居城「躑躅ヶ崎の館」は、その名が示す通り、戦国大名の居城とは趣を異にする。周囲に堀はあるものの、高く張り巡らした石垣はなく、天守閣もない。まさに「館」である。この躑躅ヶ崎の館から、有名な「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵なり」という言葉を結びつける人が多いが、その言葉を発したのは、北信濃の小笠原長時と塩尻峠で戦い、勝ったあとらしい。晴信は捕虜を使って、長時の城だった村井城の再建をする。工事が終わったあと、捕虜たちに向かって言う。ここに居残って武田家の家臣となるもよし、家に帰るもよし、この城の近くで商店を開いてもよし、と。商店を開きたいという者には資金も貸し付けると。このとき、信玄はくだんの言葉を呟いたという。つまり、戦うばかりが戦争ではない。人心を掌握し、経済を興すことも重要だと認識していたのだ。信長なら問答無用で皆殺しにしていたはずだ。

 のちに家康が天下を取ると、政治、経済、軍事、産業育成すべてにおいて信玄流を手本としたという。家康が生涯でたった一度、こてんぱんにやっつけられたのが、信玄との三方ヶ原の戦いだが、それだけに家康は信玄に畏敬の念を抱いていたのだろう。歴史を紐解くと、現代でも通用する本質がぎっしり詰まっていることがわかる。

 ときどき、思うことがある。信玄が先の大戦で大本営の総指揮をとっていたら、と。状況を俯瞰し、つねに冷静沈着に判断を下し、損害を最小限に抑えていただろう。否、そもそも無謀な戦いをせず、インテリジェンスを駆使して外交術で難局を切り抜けたにちがいない。

 

【記事一覧に戻る】

ADVERTISING

メンターとしての中国古典(電子書籍)

Recommend Contents

このページのトップへ