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紺碧の将

人生そのものが大傑作。3人の文豪の大物比べ

file.112『パリの王様たち』鹿島茂 文藝春秋

 

 日本では、小説家と言えば、暗い四畳半の部屋でゴホゴホと咳をしながら書いているというようなイメージがあるが、『レ・ミゼラブル』や『ノートルダム・ド・パリ』を書いたヴィクトル・ユゴー、『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』を書いたアレクサンドル・デュマ、そして「人間喜劇」という壮大な作品群を遺したオノレ・ド・バルザックという19世紀フランスの文豪たちの〝生態〟をテーマにした本書を読むと、思わず笑わってしまう。文豪とはいうものの、なんのことはない、実態は、二足歩行する欲望の塊である。

 著者は、フランス文学者の鹿島茂氏。『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞を、『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞を受賞している。3大文豪には及ばないものの、彼もじゅうぶんにヘンだ。彼は日本の近代史にも造詣が深く、本コラムで『ドーダの近代史』を紹介している。

 本書を読むと、彼らの遺した作品もさることながら、彼らの人生そのものが、まさに大傑作なのだとわかる。

 ──自己の天才に対するほとんど誇大妄想に近い確信、度外れた金銭感覚、偏執狂じみた女好き、何回生きても返済できないような借金を平気でしてしまう豪胆さ、料理事典までつくるほどの美食癖、そして未だに実態がつかめないほどの多作ぶり、などなど、彼らの人生そのものが、まさに『人間喜劇』であり、最も偉大な「作品」となっている──

 と、著者は冒頭に書いている。

 私は、多感な時代に、そんな人たちが書いた作品に心酔してしまった。いまだに道徳的な小説や半径数百メートルくらいを舞台にしたミニマルな作品と相性が悪いのは、そういう原体験があるからにちがいない。

 どうやらユゴー、デュマ、バルザックの辞書に「禁欲」という文字はなかったようだ。通常、人間性の負の面と思われている金銭欲や性欲、名誉心にまみれていた。ある意味、だからこそ、反面教師のような物語が書けたのかもしれない。

「英雄色を好む」とはよく聞く言葉だが、この3人に限っては、そんな生半可な言い方では足りない。たとえばユゴーの性欲は型破りで、現代なら週刊誌のいいカモになるのは必定。21歳の息子の恋人を強奪し、83歳で死ぬ直前まで、女と見れば口説き、手ごめにしていた。

 鹿島氏はこう書いている。

 ――ユゴーは83歳で死ぬ直前までこの調子で現役を通したから、関係した女たちの数は、無名の存在まで含めれば、千人斬りなどというなまやさしい数字ではすまないはずである。――

 さらに驚くべきは、自身の女性関係を克明に記した記録を、死後、パリ国立図書館に寄贈するリストに加えていたことだ。著者は「思うに、ユゴーは、自分という個体が生んだものは、すべてこれを公にさらしたいという強い欲望を感じていたにちがいない。ジャン・ヴァルジャンやミリエル司教のような崇高な感情であろうと、また女中部屋に忍び込む助平爺の下劣な欲望であろうと、それが自分のものであるなら、どんなものでも隠しておく必要はないと判断したのではあるまいか。なぜなら、自分は、どこにでもころがっているつまらぬ個体ではなく、ヴィクトル・ユゴーという稀有な存在だからである」と書いている。

 デュマもすさまじかった。彼はあるとき、知り合いの娘にこう語ったという。

「私が愛人を何人も持つのは、思いやりからだよ。もし一人だけだったら、その娘は一週間ともたずに死んでしまう。これは誇張じゃない。私はこの世のどこかに500人からの子供がいると思うね」

 悪びれていないどころか、どこか自慢げである。

 バルザックの性欲もすごかった。ただし、彼の女性の趣味はユゴーやデュマとはひと味ちがっていた。知的で金持ちの上流階級婦人に目がなかったのだ。彼女たちを籠絡するために途方もない大金を惜しげもなく使った。しかも、金策は大半が出版社からの前借りである。ふたたび本文から引用しよう。

 ――バルザックは、新しい主題を思いつくと、まだ書いてもいない本を出版社にもちこんで、次々に契約を結び、前金を受け取った。自分の才能を担保にいれて金を引き出すことを覚えたのである。だが、前金は借金を返すと消えてしまうので、なにか買いたい贅沢品があらわれた場合には、本を書き上げて残金が入る時期に合わせて約束手形を切り、すべて出版社あてに振り出した。出版社は、バルザックにとって打ち出の小槌となった。――

 やがてバルザックは新作の構想ではなく、タイトルだけを出版社に示し、前借りをするようになった。はじめは日本円で数百万円くらいだったが、そのうち数千万円に跳ね上がった。こんなボロい商売はない。しかし、この無計画な借金の返済に、のちに苦しめられることになる。

 膨大な借金を重ねていたことは、ユゴーもデュマも同じだった。手元に金があろうがなかろうが、欲しいと思った物はすぐに手に入れるため、借金を重ねた。とりわけユニークなのがデュマだ。彼は数十億円もの資金を費やし、モンテ・クリスト城という広大な屋敷をつくったが、そこには毎日のように食客が訪れた。根っから人が好く、太っ腹なデュマはどんな人間も歓迎した。

 本書を抜粋しよう。

 ――モンテ・クリスト城では、銘句のとおり、訪れる者は誰でも手厚いもてなしを受けた。なかには何年にもわたって居座っている連中もいた。あるとき、デュマは、食卓で自分の横に座っている男に「君、すまないが、ここにいる人たちをぼくに紹介してくれないか」とたのんだ。すると、その男が応えた。「いや、みんなぼくも知らない人ばかりです」

 デュマの数多くの寵妃が贅沢ざんまいの暮らしを送っていたのはもちろんのこと、文無しの作家や画家も群れをなして居候をきめこんで、皆寄ってたかって、デュマが稼ぎ出す何億何十億という金を食いつぶした。――

 自分がせっせと稼いだものを見ず知らずの輩に食いつぶされても、デュマはまったく悲嘆しなかったようだ。人が好いにもほどがある。

 彼らが書いた作品の経済効果もすさまじい。ユゴーは、『レ・ミゼラブル』をラクロワという出版社と、30万フラン(3億円)という法外な条件で契約した。そしてラクロワは『レ・ミゼラブル』によって、6年間で約52万フラン(5億2000万円)の純益をあげたという。現在、わが国の小説家の半数以上が、作家としての年収が100万円に満たないと聞いたことがあるが、あまりのスケールのちがいに唖然とするばかりだ。

 上記以外にも、読みながら口があんぐり開いてしまうようなエピソードがずらり。年々人間のスケールが矮小化していく時代にあって、こんな時代もあったと思えるだけで愉快になれる。

 いやはや……、なんとも痛快な本である。

 

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