他社がやりたがらないニッチな製品を作ることで独自の存在価値を高めていきたい。
桂化学株式会社 代表 桂良太郎さん
2025.01.25
恵まれたスタート期から、社会人になるや一転して崖っぷちへ。
乱高下する人生の変転を乗り越え、いかにして現在に至ったか。その秘訣を語ってもらいました。
レールをはずれてジャンプ
桂さんは、日露戦争時に総理大臣だった桂太郎公の玄孫(やしゃご=孫の孫)ですね。お会いできるのをとても楽しみにしていました。桂太郎は私が尊敬する人物の一人です。
先祖のことを話すのは自分の出自をひけらかすようで抵抗がありました。自分からそういう話をしたことはほとんどありません。それから、中学生の頃の出来事がずっと脳裏にあって、あまりそういう話題にするのはよくないのでは、とも思っていました。
どんな出来事だったのですか。
教室で、先生からいきなり「桂、おまえの先祖のような人間が日本を戦争に巻き込んだのだ」と言われたのです。
それはとんでもない教師ですね。日教組が強かった時代とはいえ、常軌を逸しています。当時の日本が置かれた状況をまったく理解していません。当時の政治家や外交官、軍人たちが命をかけてロシアの侵略から守ってくれたからこそ、日本は植民地にならずにすんだのです。もし日本がロシアに負けていたら、領土の割譲、強制移住、強制労働など過酷な処置は避けられなかったでしょう。それによってどれほどの日本人が辛酸を舐めたことか。
今でしたらそう理解できますが、当時はまだ子供でしたから、先生の言うことに異を唱えることはできませんでした。
桂太郎は傑出した能力を持っていたわけではないが、並みいる傑物たちをうまくまとめあげる人間力があったというのが私の見方です。ニコポンという渾名にそれが現れています。ニコニコ笑いながら相手の肩をポンと叩き、懐柔してしまう。日英同盟を結ぶなど、時局を見る目も冴えていました。安倍さんに抜かれるまで、長らく歴代総理大臣の在職日数で一番でした。
安倍さんが在職日数で桂太郎を抜いた時、いろいろなメディアから感想を聞かせてくださいと取材がきました。感想と言われてもどう答えていいか、困りました(笑)。
そういえば、安倍さんもニコポンでしたね。そのやり方でトランプ氏を手なづけてしまいました。ところで桂さんのお生まれはいつですか。
1973年です。
東京ですか。
三田です。
どんな子供だったのですか。
私は初等科から大学まで学習院で、エスカレータ式に上がっていく学校でしたから地元に学友はいませんでした。その頃から遠くへ行ってみたいという願望があって、よく一人であてもなく自転車をこいで出かけていました。まるで探検家気取りでした(笑)。
由緒ある家柄ですから、家庭の躾は厳しかったですか。
いいえ、両親ともに自主性を重んじてくれて、これはダメと禁じられることはほとんどなかったですね。ただ、公共の場でのマナーに関してはうるさかったです。大声を出してはいけないとか食事の時は音を立てずにきれいに食べなさいとか。
それはわが家と同じですね。細かいことは言わない替わり、公共の場での食事のふるまいはうるさく注意しました。子供だからうるさくしてもいいと考えるのは、かえってその子の将来にとってマイナスです。
そういうことが自然に身についていると、さまざまなシーンで役に立ちます。
桂さんは現在、桂化学株式会社の代表取締役社長ですが、創業されたのは桂太郎公の孫で貴族院議員の廣太郎でしたね。その後、桂さんのお父様が継がれたわけですが、その頃、将来は父の会社を継ぐという気持ちはありましたか。
ほとんどありませんでした。大学ではアイスホッケー部に入っていて、OBつながりでいくつか声をかけてもらったのですが、それまでずっとエスカレータ式でしたし、このままレールに乗って将来を決めるのは嫌だと思い、まずは海外に留学してみたいと思いました。ただし留学の費用は自分で働いて貯めると決め、1年間、昼夜問わずバイトをしていました。
どんな仕事をしていたのですか。
昼間は携帯電話のテレフォンオペレータで、いわゆるクレーム係です。夜は知人が経営しているバーでバーテンダーの手伝いをしていました。
どちらも得難い体験ですね。
そうですね。クレーム対応では、怒っている人の対応の仕方を学びましたし、バーではさまざまな人間模様を観察することができました。
留学先はどちらですか。
オーストラリアです。ホームステイをしたのですが、はじめの4ヶ月で英語の研修を終え、その後の1年半は民間のビジネススクールに入ってヒューマン・リソース・マネジメントを履修しました。
それも得難い体験ですね。
そうですね。得難い体験といえば、いろいろなことがありました。わけもなく差別をされたり……。ああ、やはりこういうことがあるんだな、この人たちはどうして差別するんだろう、そんなことをしても何もプラスになることはないのにと思いました。私はいろいろな出来事に直面しても感情的になるというより、どこか冷めた目で物事をとらえようとする傾向があるんです。いったいこの場合の心理構造はどうなっているんだろうとか、どういう仕組みによってそうなるんだろうって。
差別はだれの心にもありますよね。相手を見下すことによって自分が優位に立ちたいと。劣等感の裏返しです。でも、それを内面に閉じ込めておくのが知性だと思います。それをしたからといって桂さんの言う通り、現状は何も変わりませんし。まったくプラスにならないことに振り回されるのは人間の悲しい性だと思います。
天国から地獄へ
留学を終えて帰国されたのですか。
はい。帰国して父の会社に入り、管理部に配属されたのですが、1年半ほど過ぎたあたりから、これはまずいぞと思うようになりました。というのも過剰投資が原因で会社の財務状況は火の車になっていたのです。2002年5月、2度目の不渡りを出し、事実上、経営破綻しました。それまではお坊ちゃんと言われても仕方がないような人生を送っていましたが、いきなり土俵際に追い込まれてしまったのです。会社の破綻と同時に、債務保証をしていたため個人としても破産を余儀なくされ、父はすっかり意気消沈してしまい、私が矢面に立つことになりました。
現在も同じ社名の会社があるということは、再生できたということですか。
はい。債権者集会を開いて再建計画を提示し、多くの債権者に債務の大幅な減免を認めていただきました。
ほとんどの人は一生縁がない、過酷な体験でしたね。
その時も案外、私は客観的になれたというかクールでした。自分の父親の会社とはいえ、自分がやったことではないという気持ちもありましたし、罪の意識が薄かったのだと思います。もし会社がなくなっても自分は新たなことを始めればいいという意識もありました。
私も経営者の端くれですが、そんな気持ちになれるものでしょうか。
当時の私は世の中のことがまったくわかっていませんでした。そもそも破産ということが法的にどういうことなのか理解していませんでした。そこで顧問の弁護士の先生にいろいろ教えていただき、少しずつ会社というものに係る制度を理解し始めました。免責を受けることができれば引き続き事業を継続することができることがわかりましたし、命まで取られるわけではない、誠心誠意精いっぱいやる以外にないと腹をくくることができたのです。
それにしてもハードの状況をよくしのぎましたね。
当時、2人の友人が経営難に直面していて、彼らと悩みを打ち明け合ったりするだけで気持ちが楽になりました。同じ泥水を吸ってくれるというか……。それによって何かが解決できるわけではないのですが、気休めって大切だなと思い知りました。結婚したのもその頃です。
それはまた奥様も肝が座っていますね。民事再生が認められて、その後、どのようにして会社を立て直そうと思ったのですか。
少量で手間がかかり、他社が敬遠する仕事に特化する
幸い、製品を作れば売れるという業界でした。問題は資金繰りです。社員はずいぶん減ったとはいえ30人ほどいましたし、銀行からの融資はいっさい受けられませんでしたからお金のやりくりにはほんとうに苦労しました。寝ても覚めても資金繰りのことが気がかりで、お風呂に入ってひと息つくと、いつまでにいくら準備しなきゃと数字が頭を駆け巡るのです。私たちの事業は医薬品の原薬を作ることですが、原料を仕入れてから製品化して出荷するまで10ヶ月くらいかかり、銀行の融資がないとやりくりが大変です。仕入れ業者に支払いを延ばしてもらったり、納入先(製薬会社)には「すぐにお支払いいただかないと回らなくなる」と説明し、無理をきいてもらったり……。そういう綱渡りが5年くらい続きました。
それを乗り越えたのはすごい胆力ですね。桂化学のように原薬を製造する会社はどれくらいあるのですか。
国内で100社強というところです。
同業者との競争において、桂さんはどのような戦略をたてられたのですか。
ニッチな製品に特化するということです。世界の製薬業界においては中国やインドが安い価格で大量生産していて、それと同じ土俵に乗ってもまったく勝ち目はありません。また国内の大手製薬会社についても同じことが言えます。私たちは、他社がやりたがらない製品、作るのが難しく品質が重視され、それでいて少ロットの製品に特化することで存在価値を高めたいと考えました。
旨味のあるカテゴリーには多くの企業が参入し、結果としてレッドオーシャン化しますね。ニューヨークに住む私の知人が一人で半導体の仕事をしていますが、彼は大手がまったく手をつけようとしない案件、例えば研究用に5個しか必要がないといったニッチなニーズに対応しています。そのためにシリコンバレーの小さな町工場をくまなく回り、さまざまなオーダーに応じられるよう取引会社を開拓しました。通常、半導体は巨大企業が手掛けるものと思われがちですが、ここにもニッチマーケットがあるわけです。しかも競合相手があまりいない。ただ、ニッチマーケットに特化すると、売上規模が上がらないというマイナス面もあるのでは?
そうですね。そのため海外にも販路を拡大しており、現在、フランス・ドイツ・イギリス・スペインの他、北アフリカにも進出しています。弊社は「グローバルニッチAPIのリーディングカンパニーを目指す」を旗印に掲げています。API(Active Pharmaceutical Ingredient)とは医薬品有効成分の意味です。ニーズは少量でもそれを必要としている人がいます。そういう人たちのためにも、自分たちにしかできないことを丁寧にやり続けていきたいと考えています。
現在は業績も回復されているのですね。
2009年には金融機関との取り引きも再開し、多くの方々のご協力で安定経営に乗せることができました。
本質を学ぶ
桂さんとのご縁は東洋思想家の田口佳史先生のご紹介でしたが、東洋思想を学ぼうと思ったきっかけはなんですか。
ある製薬会社の経営者に薦められて田口先生の講義を受けることになりました。最初は錚々たる方々が学ばれているなかに入ること自体畏れ多くて、とても緊張しました。「貞観政要? なにそれ。漢文なんて学生時代以来、読んだことないのに」と。田口先生は愉快に生きるために学ぶ、そのためには根源・長期・多様に物事を観ることが大切だとおっしゃいます。まったく年齢を感じさせませんし、度量の大きい人間性に驚きました。こういう人ってほんとうに実在するんだって(笑)。
まさにその通りですね。
いつも叱られてばかりです。でもこの歳になって、そういうことを言ってくれる方はありがたいです。
相手のことを真剣に考えないと叱ることはできませんからね。
毎回、講義の要点をまとめているのですが、読み返すと、「前にもこれを書いたのに、全然できていないな」と反省することばかりです。
その反復がいいんです。田口先生は「皮膚の理解・肉の理解・骨の理解という言葉がありますがそれだけでは足りません。髄の理解が必要なのです」とおっしゃいます。骨の髄まで理解するためには、何度も何度も反復して学ぶしかありません。
自然と一体になって遊ぶ
趣味はありますか。
サーフィンとスノーボードです。高校時代は競技スキー部、大学時代はアイスホッケー部に入っていて、サーフィンとかスノーボードはチャラチャラした人がするスポーツだと思っていました(笑)。でも、オーストラリア留学時代にサーフィンを経験し、これは一番つらいスポーツかもしれないと見方が180度変わってしまいました。というのも、2時間サーフィンをしたとして、サーフボードに立って波に乗るのはせいぜい3分か4分です。それ以外はひたすら海の上でパドルをしているんです。
それは意外です。
でも、その分、波に乗れた時の感動は大きいですよ。水の上に立つって見る風景は日常にはないもので、一度それを体験するとやめられなくなります。その日の天気や風を読む感覚も磨かれてきます。
危険な目に遭われたことはありませんか。
あります。離岸流という波があって、これがきたら横にパドルして逃げると頭ではわかっていたのですが、実際それに直面するとパニックに陥って、どうしても岸に戻ろうとしてしまうんです。すると一気に体力を消耗し、沖へ流されてしまいます。幸い、その時は仲間が「横へ逃げろ」と大声で教えてくれて事なきを得ました。
自然と向き合うということは危険と隣り合わせでもありますね。私は登山が好きですが、滑落して頭を打って命を落とした人を見たことがあります。最後に、これからの目標をお聞かせください。
幹部を育てる環境を作りたいと思っています。社会に必要とされる企業を目指しているということは、継続させなければ意味がありません。そのためにも私の後の代が綿々と続く仕組みを作りたいと思っています。また、だれが言ったか忘れましたが、毎日を大晦日や元旦の心境で過ごせたら幸せだと。そういう心持ちになれるよう、自分という人間の幅も広げていきます。
そうなることを願います。今日は長い時間、ありがとうございました。
(取材・文/髙久多樂)
(写真上から/少年時代、高校生の頃、アイスホッケ-、オーストラリアでのホームステイ、サーフィン中の風景)