学生は知識を詰め込むための容器ではない。火を灯すための松明だ。
アインシュタインがどうしてこんなことを言ったのかといえば、自分の学び方と当時の学生の学び方があまりにも違っていたからだろう。当時にしてそれなのだから、アインシュタインが現代に生きていたらなんと言うだろう。
知識教育の是非は、ずっと言われていることである。知識を詰め込むだけの教育では新しい時代に対応できる人間にはならないと。
戦後の日本の経済成長モデルは、一定の知識とかなり高度な協調性を備えた人材が担った。規格大量生産に向く人材を大量に育成し、きっちり枠にはめた組織の秩序のなかに組み込めば、相応の成果があげられた。雇われる側も、言われた通りに働けば、定年まで安泰だった。ある意味、平和な時代といえよう。
しかし、今はまったく違う。求められているのは、ただ知識を詰め込んだだけの人材ではなく、知識をベースに「新しいことを考えられる」柔軟な発想と管理型社会を逸脱した〝変わり者〟ではないか。
事実、教育や企業採用の現場では、ようやく変わり始めた感がある。知識の多寡だけを問うのであれば、AIでじゅうぶん。人間に求められるのは、「他の人にはない能力と発想」。それを個性というのだろう。
それが発現するよう、若者たちの心に火を灯す。それこそが教育者の使命だろう。
(260313 第891回)
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