死ぬまでに読むべき300冊の本
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紺碧の将

簡潔にして鋼のようなしなやかさ

file.010『ヘミングウェイ全短編』アーネスト・ヘミングウェイ 新潮社

 

「世界初の完璧な短編全集。待望の日本語永久保存版」と帯に銘打っているように、未発表を含めたすべての短編が収められたもので、豪華な化粧ケースに入っている。デザインも秀逸。持っているだけで特別な気持ちになる。

 ヘミングウェイの初期短編集『われらの時代』『男だけの世界』『勝者に報酬はない』の3冊に、『キリマンジャロの雪』や未発表短篇を集めた『何を見ても何かを思いだす』を合わせたすべての短篇が、この豪華な2冊組のハードカバーに収められている。

 いままでにヘミングウェイの短編は何度読んだことだろう。簡潔な文体で、ストーリー性に乏しい作品が多いので、若い頃は魅力的とは思わなかった。しかし、いつしか、キリリと引き締まった文体が快感となった。

 釣り、狩猟、闘牛、戦争、ボクシングなど、男っぽいテーマが多い。その一断面を切り裂き、人間の本質を暴き出す。それが彼の短編の特徴だろう。

 ヘミングウェイは作家泣かせでもある。川上弘美は若い頃、わずか4ページの「スミルナの埠頭にて」を読んで、「あー自分なんか絶対にこんなもの書けるわけがない」と絶望のどん底に落ちたというし、有吉玉青はアメリカ留学中、わずか8ページの、しかも英語の辞書なしで読めるほど簡潔に書かれた「インディアンの村」に衝撃を受け、その作品を手本に書こうとしたら先生に「天才だから書けるけど、皆さんには書けない」と断言されたというエピソードを語っている。

 ヘミングウェイは氷山の文学と言われている。表面に出ているのは全体のわずか20〜30%で、それを読みながら、残された滋味(氷山で言えば、水面下にある氷)を味わえるということだ。ということは、とどのつまり日本の短歌や俳句に似ていなくもない。行間を読む感性と洞察力、深い教養がなければ短歌の面白みは味わえない。ヘミングウェイもたしかにそうで、表面的なストーリーだけを追っては愉しい読書にならない。ポピュラーな作家と思われがちだが、その実、かなり手強い。読者に対する配慮もあまりなく、文体は元祖ハードボイルドのそっけなさ、集中して読まないとひどいしっぺ返しを受けることになる。

 私が特に好きな作品は前述の「インディアンの村」の他、「雨のなかの猫」「殺し屋」「アルプス牧歌」「清潔でとても明るいところ」「蝶々と戦車」「アフリカ物語」など多数ある。「アルプス牧歌」の死者に対する感覚など、凄みすら漂っている。今村楯夫は「雨のなかの猫」に焦点を当て、『ヘミングウェイと猫と女たち』(新潮選書)という評論を書いているが、どの短篇をとっても面白そうな文学評論が書けそうである。わずか8ページの作品が200ページ以上の評論に膨れあがるなんて、ヘミングウェイならではだろう。

 形容詞をほとんど使わず、物事の核心を簡潔な言葉でザックザックと切り裂いていったヘミングウェイの真骨頂は、やはり短篇にこそある。菊池寛は「古典1000冊3回読め」と言ったらしいが、ヘミングウェイの短編集を訳文と原文でそれぞれ100回読むというのも面白そうだ。自分の人間的な成長(あるいは退化)とともに、感じ方が変わっていくのがわかるにちがいない。もっとも、人生はそれをするにじゅうぶんな時間は与えられてはいない。やはり、一期一会の心境で、心に沁み込ませながら読むべきだろう。

 

 

 

 

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