死ぬまでに読むべき300冊の本
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紺碧の将

権力に隷従しない軽さと重さ

file.131『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ 千野栄一訳 集英社

 

 文学の名作を映画化したものに、あまりいいものはない。

 あらためて考えるまでもなく、当然のことだ。なぜなら、映像は、具体的にビジュアルを示すが、言葉はイメージを喚起させるだけ。百聞は一見にしかずといわれるが、ひとつのビジュアル(一見)に対して、イメージは無限に広げることもできる。映像が優れた文学に太刀打ちできない理由はそれだ。にもかかわらず、マーケットにおいて文学は映像に敗北している。皮肉なものだ。

 私にとって原作を読んでも良し、映画化されたものを見ても良しという数少ない作品のひとつが、1984年に発表された『存在の耐えられない軽さ』である。作者はチェコの亡命作家ミラン・クンデラ。1968年に起こった「プラハの春」で指導的な役割を果たし、フランスに亡命したという自身の体験をふまえ、ソ連に蹂躙された祖国を舞台にした小説が多い。

 タイトルが意味深長だ。作中では、絶えず軽さと重さについて作者が(哲学的に)問う。そういえば、物語の途中、クンデラはたびたび自分の顔を覗かせ、哲学的考察を述べたり、読者に問いかけたりする。小説の登場人物たちに好き放題はさせず、手綱をしっかり握っていたいタイプなのだろう。

 

 この本を開くと、いきなりややこしい言い回しで始まる。

──永劫回帰という考えはミステリアスで、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた──。

 また、本文中には次のような一節も出てくる。

──重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか──。

 かなり理屈っぽい。そんなのどっちでもいいよと言いたくなる。しかし、ついついクンデラの筆致に誘惑され、気がつくと、作品の大きな流れに身をゆだねている自分がいる。これだけややこしい人間関係を描けば、いろいろ理屈もつけたくなるよな、と。

 主人公はトマーシュという、ひとことで言えば女たらしの医師。作中、女性遍歴は数百人と披瀝している。

 そして、彼を取り巻く二人の女性。ひとりはやがて結婚することになるテレザ。もうひとりはセックスパートナーともいえるサビーナ。トマーシュとサビーナは、単に愛人関係を越えて、深いところで共感している。テレザはサビーナの存在を知っており、ときどき夫を「あなたは、どうしてそんなに軽いの?」となじる。

 この物語で最も好きな部分を、映画ではかなり印象的に表現してくれた。トマーシュは『オイディプス』になぞらえた共産党批判の文書を撤回しろと共産党幹部から迫られる。撤回しなければ、医師の資格を剥奪するぞ、と。

「軽い」はずであったトマーシュは悩む。その文章はさほど重要なものではない。周囲も撤回することを〝期待〟していたように、仮に撤回したところでなんら恥じることではない。

 ――トマーシュは知っていた。秤にのっていたのは二つのことである。一方は彼の名誉(それには発言したことを撤回しないということにあった)、もう一方は自分の人生の意義とみなしてきたもの(研究者および医者としての自分)であった――。

 彼は逡巡し、撤回を拒否する。

「嘆願書を大統領に送ることより、地面に埋められているカラスを掘り出すことのほうがはるかに大切です」

 権力に指図される生き方を拒否したのだ。そして、医師の資格を剥奪され、窓拭きとなり、やがて田舎で肉体労働に従事する。皮肉にも、そこで彼はテレザとの溝を埋め、愛を深めることになるのだが、彼らを待っている結末とは…。

 

 本書は「プラハの春」を題材にしているだけに、ロシア人の周辺国に対する武力侵攻の方法についても詳細に描かれている。

 ――ロシア帝国のこれまでのいかなる犯罪も巧みなものいわぬ陰にかくれて行われた。五十万人のリトアニア人の強制移住、何十万というポーランド人の殺害、クリミア・タタール人の絶滅、これらすべてのことが写真という記録なしで記憶の中に残った。ということは何か実証不可能なものだから、遅かれ早かれでっちあげといわれる運命にある――。

 ――テレザはドゥプチェックのことを思った。外国の兵士が、国家の元首である彼を、彼の国土で逮捕し、連行し、四日間というものどこかウクライナの山に留めておき、十二年前にハンガリーの先駆者イムレ・ナジをそうしたように射殺するとほのめかし、そのあとモスクワに連れていって、風呂に入れ、ひげを剃らせ、服を着せ、ネクタイを結ぶように命令し、もう処刑されることはないと知らせて、続けて自らを国家元首と見なさねばならないと命じ、ブレジネフと向かい合って座り、話し合いをするように強制した――。

 念を入れた脅迫である。

 チェコ人を屈服させたあとの洗脳についても触れている。人間を操ることに関して、ロシア人は天才的な能力を発揮する。

 占領当初、ロシア人に対して反感を抱いているチェコ人に、まず仮想の敵を植え付ける。最初は鳩であり、次が犬であった。いかに鳩や犬が人間にとって邪悪な生きものであるかを繰り返し伝え(洗脳し)、鳩や犬を撲滅する。およそ1年でチェコ人たちの攻撃性を統一し、その後、本来のターゲット、つまり共産主義に対して批判する人を見つけて粛清する。いまウクライナで行っている非人道的な行為も、ロシアの歴史の延長線上にあることがわかる。

 

 トマーシュは女性には軽かった。しかし、自らを主人公とする生き方を貫くことにおいては重かった。

 

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