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明治維新の精神的支柱

第6回 吉田松陰

偉人に共通する「外への志向」

 本連載は日本史において特に重要と思える人物を顕彰しようという試みだが、今までの5人に共通している要素がある。それをひとことで言えば、「外への志向」と表現することができる。

 大久保利通は近代日本の基礎をつくった人物であり、彼がいなければ日本は列強の餌食になっていた可能性が高い。

 小村寿太郎は英語やフランス語を巧みに操り、国際外交史にも通暁していた。

 西行は武士の身分を捨て、諸国を放浪しながら独自の歌風を確立した。松尾芭蕉を「その気に」させたのは西行だろう。

 東郷平八郎は人物としての大きな器に加え、英国仕込みのリーダーシップ術や戦術論に磨きをかけた軍人であり、日本海海戦は東郷の人格によって勝利を得たと言って過言ではない。

 徳川家康は内向きの人間ととらえられることが多いが、じつは正反対であり、「外への志向」があったからこそ全国制覇を叶えることができたのである。三河の一大名で良かったのならその道もあったはずだが、そうはしなかった。江戸時代260余年があったかどうかで日本史は大きく変わってしまう。

 さて、今回選んだ人物・吉田松陰も密航を企てるなど、「外への志向」が明らかにあった。しかし、その名は広く知れ渡っているものの、松陰がどのような思想をもち、松下村塾でどのようなことを教えたのか、詳しく知っている人は存外少ない。

明治維新の原動力は松陰の研ぎ澄まされた精神性

 吉田松陰は、偶然あのような人物になったわけではない。あのような人物になるべく、徹底的に鍛錬されたのである。

 松陰が生まれたのは文政13(1830)年、没年は安政6年(1859)年。わずか30年の生涯であった。にもかかわらず、松陰の果たした役割は大きい。

 では、松陰は具体的にどのような役割を果たしたのか、と問われれば、これほど答えにくい人も珍しい。存在そのものは極めて重要なのに、いざ何をなしたのかと言えば、とっさに言葉が浮かばない。

 そこで田口佳史氏の松陰評を拝借することにする。弊社がかつて編集・発行していた『fooga』が廃刊となる際、寄せていただいた文章のなかに、これ以上はないと思えるほど的確な松陰評がある。

 

――明治維新を推進した真の人物を一人に絞るとしたら、それは誰か。ずばり私は吉田松陰と答えたい。

 松陰とはじつに不思議な人間である。明治維新の推進者とすれば、それは革命家ということになるが、松陰は革命家ではない。革命家とは、銃を持って戦った人、あるいは戦闘部隊の長を務めた人間ということになるが、そうした行為を松陰はまったく行っていない。それでは思想家かといえば、これも当たらない。思想家とは常識的にいえば独自の主張を論理的に展開して思想にし著書にした者を言うが、松陰には著書と言えるものはない。

 さらにいえば、松陰は失敗者である。その言い分が過ぎるならば、少なくとも成功者ではない。最も活動を行うべき人生の最盛期である20代後半は、ずっと獄中の身だった。それでいながら、松陰なくして明治維新はなかったと言わしめるものは何か。

「美しさ」である、と私は断言する。

 社会を変転させるなどということは、そうたやすいことではない。その原動力は何かといえば、「異常さ」といえる。「狂気」ともいえる。こうした非常の感情によって突き動かされた人間が群衆として存在し、それが拡大を伴って一つの目的、例えば新しい社会をつくるんだという目的に向かって怒濤の勢いで押し寄せてはじめて可能なのである。実際に明治維新は、そのようにして行われた。

 その狂気ともいえる異常な感情の源泉とは何か、という問いを突き詰めていくと、そこにいるのが吉田松陰であり、松陰のこの世のものとは思われぬ純粋で清い「美しい心と生き方」なのである。

 松陰は最後の最後に『留魂録』を残したが、まさに魂レベルのその美しさこそ、後に続く者たちに、何としてもこの美しさを無にしてはならないと誓わせ、「近代日本」という「大きなもの」を生む原動力となった。

 

 なるほどと思う。あれほどの革命の原動力となったのは、一人の人間の美しい心性だというのである。

 では、どのようにして、それほどの精神性をもちえるに到ったのか。

壮絶な人物鍛錬

 ほかの多くの傑人と同様、松陰もまた父母の影響をたっぷり受けている。父・杉百合之助は神道・国学に通じ、後に松陰は父を評し、「いつも口から書物を吐き出していた」と言っているほどの人物。一方、母の瀧は信心深く、勤勉にして清廉、いつも我が子を見守り、ありったけの愛情を松陰に注いでいた。

 松陰の幼名は杉虎之助。6歳の時、山鹿流兵学師範である叔父の吉田大助の養子となり、吉田大次郎と改名する。大助の死後、その弟である玉木文之進が自宅で開いた私塾・松下村塾で指導を受けることになるのだが、そのときの学びは想像を絶するほど過酷だった。母・瀧が「こんなに大変な思いをするのなら、死んだ方がましではないか」と語ったというほどである。その当時の有名なエピソードがある。

 松陰が10歳の頃の話である。当時、勉強は藩校や寺子屋でするものばかりではなかった。四書五経を頭の中にたたき込み、農作業の手伝いをしながらも教科書なしで勉学に励んでいた。

 文之進は松陰をあぜ道に腰をおろさせ、自分が農作業をしている間、ある書物を朗読するようにと命じた。ある程度時間が過ぎて松陰のところに戻ったときのこと。松陰の顔にハエか蚊がとまったために、それを払いのけているのを見た。すると文之進は思いきり平手打ちにし、松陰は数メートルも吹っ飛んでしまったという。

「勉強は国家、社会のためにするものであり、いわば公の仕事である。その最中に痒いからといって顔を掻くのは、いわば私ごとである。私ごとを優先するような人物が大きな仕事などできるはずもない」そう松陰を叱責したという。

 学びは私事ではなく、天下国家のためという強烈な意識は、そのようにして幼少の頃から培われたのである。

 そのような命がけの猛勉強が早々と実を結ぶことになる。松陰が11歳のとき、藩主・毛利慶親に御前講義をする機会を得、堂々たるふるまいで山鹿流「武教全書」戦法篇を説き、藩主や重臣らを驚愕させるのである。11歳といえば、現代の小学5年生程度。その早熟ぶりは常軌を逸していた。

松陰の人生を概観する

 転機はアヘン戦争だった。産業革命を経て圧倒的な軍事力を持つ英国の前に、大国・清がなすすべもなく敗れ、蹂躙されているのを知り、もはや山鹿流兵学では西洋列強に太刀打ちできないと悟り、西洋兵学を学ぶために九州に遊学、次いで江戸へ上り、佐久間象山に師事するのである。命懸けで会得した兵学にいとも簡単に見切りをつけ、目を外へ転ずるあたり、進取の精神も並大抵ではなかったことがわかる。

 嘉永5(1852)年、東北遊学を決意して脱藩。会津の日新館を見るなど、さまざまな体験をした後、帰京し、史籍剥奪・余禄没収の処分を受けることになる。さらに翌年、ペリーが浦賀に来航すると師の佐久間象山と黒船を見に出かけ、大きな衝撃を受け、西洋への留学を決意する。

 しかし、藩の行き来さえ自由にできない当時、西洋への留学が叶うはずもない。翌年、ペリーが再来航した際、松陰は停泊中のポーハタン号に強引に乗り込み、密航を企てるが聞き入れられず、やむなく断念することになる。そして、投獄された後、長州へ送られ、野山獄に幽囚となる。この時、松陰は囚人たちを相手に孟子講義をし、その記録を『講孟余話』としてまとめている。

 翌年、出獄を許されることになるが、それからの二年強が松陰の生涯において最も充実した年月となる。安政3(1856)年、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾を引き継ぎ、杉家の敷地の一角に開塾することになるのである。

 集まった門下生は、久坂玄瑞、伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋、吉田稔麿、前原一誠、入江九一、山田顕義、品川弥二郎など、倒幕から維新、そして明治の創生期において重要な役割を果たす人物ばかり。多い時は70人前後の塾生が松陰の下に通っていたという。

 しかし、松陰の円熟期は長くは続かなかった。安政5年、幕府が日米修好通商条約を結んだことで激怒し、倒幕計画を立てるが頓挫して、再び野山獄に幽閉される。

 その後、大老・井伊直弼の安政の大獄が始まると江戸に檻送される。当時、幕府側は松陰を死罪にするつもりはなかったが、松陰は老中・間部詮勝暗殺計画を自供したため、一転して死罪を言い渡される。かくして安政6年11月21日、斬刑に処せられた。

 松陰は死を目前にしても、いつもと変わらぬ平常心を保っていたと、首切り役の山田浅右衛門は松陰の最期の姿を後々まで語っている。

松陰の教え

 2年強、松陰が松下村塾でどのようなことを教えていたのか。その概要は松陰自身の言葉から紐解くことができる。

 

学問の本質/学問とは、人間とは何かを学ぶことである。

死生観/死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

公共心/体は私なり、心は公なり

学びの実践/至誠にして動かざる者は未だこれ有さざるなり。(※どんなに素晴らしい志を抱いていても、それを実行に移さなければ意味がない)

インテリジェンス観/飛耳長目(情報を収集し、将来の判断材料にせよ)

外交思想/北海道を開拓し、琉球の日本領化、李氏朝鮮の属国化、満州・台湾・フィリピンの領有をせよ(※かなり激烈な対外思想といえる)

 講義内容は松陰からの一方的な講釈ばかりではなく、あるテーマを設けてディスカッションをしたり、武芸はもちろん、登山・水泳、さらに農作業など多岐に及んでいる。

 

 以上の思想に基づき、松陰は塾生たちに鮮やかな感化をもたらした。その結果、門下生の中から内閣総理大臣2名(伊藤博文、山縣有朋)、国務大臣7名、大学創始者2名を輩出するという輝かしいばかりの成果を残すことになった。

 また、明治以降の日本人は、南北朝時代に活躍した楠木正成を武士の手本とすることが多いが、そのような人物観ももとをたどれば松陰に行き着く。松陰が著した『七生説』には、次のような文言が並ぶ。

――スナワチ楠公ノ後ニ、マタ楠公ヲ生ズルハ、モトヨリ計数スベカラザルナリ。何ゾヒトリ七タビナランヤ。

 これが後に「七生報国」となって昭和の軍部に悪用されるが、もともとの意味は、「一見、無駄な死に方だと思えるものでも、ずっと後になってその意味が顕在化することがある」というような内容である。

 明治維新、そして日露戦争に至る動乱期を日本が乗り越えられた背景には、明治の元勲たちの活躍が数多くあるが、その精神的な支えとなったのが吉田松陰だったのである。まさに松陰自らが示唆したように、一見ムダとも思える刑死が数年、数十年の後に重要な意味を帯びてきたのである。このことを肝に銘じれば、各々の生き様が後の世につながっているということがわかる。自分の人生を疎かにできない理由はこういうところにもあるのだ。

毛先ほどの私心もなく

 死刑を覚悟した松陰は、11月20日、獄中で家族宛に『永訣の書』を書き、さらに25日、門弟たちに向けて『留魂録』を書き始め、翌26日の夕刻に書き終えている。後者はわずか5千字程度だが、門弟たちの手に渡らないことを想定し、同じものを2通書いている。

 萩の松陰神社で松陰自筆の書を見ることができるが、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」と始まる文章の一字一句に清冽な魂が宿っているかのような印象を受けた。

 内容もまた凄まじい。人間も自然と同様、春夏秋冬の巡りがあり、二十歳には二十歳の四季、三十歳には三十歳の、五十、百歳にもおのずからの四季が備わっており、それにふさわしい実を結ぶのだと説いている。松陰はわずか二十九歳でこの世を去ることになったが、そこには一点の後悔もなかったのではないだろうか。

――人能く私心を除く時は至大にして天地と道同一体になるなり。至誠にして動かざるものあらざるなり。(私心をなくした時こそ、天地と一体になれる。そうなれば不可能なことなどない)

 徹頭徹尾、私心をなくし、公のために命を燃やし続けた吉田松陰。

 個人の事績だけでは、その気宇壮大さはわからないが、長い時間軸で見ると、いかに途方もない大きさだったかわかる。

 

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