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紺碧の将

謙信の残影

2022.10.03

 あまたいた戦国武将のなかで、武田信玄と上杉謙信が最強だったと言う人が多い。その両雄は川中島で5度も干戈を交えた。もし両雄が直接戦って消耗せず、信玄は東海道から、謙信は北陸道から京を目指していたら、と考えると面白い。家康や信長はどうなっていたか、江戸幕府はできたのかなどと際限なく空想が広がる。

 さて、信玄と謙信である。信玄はリアリスト、謙信は義の人というイメージが定着している。私は、断然信玄派である。しかし、子供の頃は謙信に惹かれた。なんたって義の人である。無私である。自分たちの利益のためにいくさをしない。敵が困っていれば塩も送ってしまう。

 ほんとうだろうか。そんな戦国武将はありえるのか。

「敵に塩をおくる」は明らかに創作である。そんなことはどの文献にも書かれていない。謙信ならそういうこともしただろうという〝期待感〟がそういう美談をつくらせる。しかし、謙信だってそんなバカなことはしていない。

 なんら利益にならないのに、命を賭ける人はいまい。戦国時代、命がけで戦ったのは、領土拡張が必要だったからだ。

 戦国時代の黎明期、地頭と呼ばれる人たちがいた。彼らは守護(戦国大名)の後ろ盾で徴税・賦役を行っていた。もし農民が地頭に反抗すれば、守護はそれを抑えるという役割を担っていた。しかし、土地そのものが狭くてはそれができにくい。地頭が苦しくなれば、守護も苦しくなる。地頭は農民に土地を増やしてやりたい。それで領土拡張に進む。つまり、戦国大名の領土拡張は、現代のビジネスのシェア争いにも通じる。自社の利益をいっさい求めずに組織を維持させることは不可能なのだ。

 話を戻そう。直江津のすぐ隣に春日山城址がある。山城だ。

 私は信玄が居住していた躑躅ヶ崎の館には何度も足を運んでいるが、謙信の居城だった春日山城には一度も行ったことがなかった。

 タクシーの運転手は「あそこへ行ってもなにも(残って)ないですよ」と言ったが、それはそれで結構。なにもないのであれば、想像すればいい。

 はたしてなにもなかった。ただ、ここには○○があったという表示があるのみ。塹壕の跡や天守があった場所などに立ち、当時の様子を想像する。それはそれでなかなか妙味があった。

 

右上、春日山城の全貌

 

下から春日山城址を見上げる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上杉謙信公の銅像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

塹壕跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

直江屋敷跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

景勝屋敷跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守跡より高田駅方面を望む

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(221003 第1148回)

 

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